風の聖痕- His age is 10,and 7 years ago -










 子供の頃。神凪和麻にとって、家は地獄だった。



「ぐ、ああッ――!」


 家といっても一般的な家庭のことではない。和麻の家は一族郎党すべてが暮らす、神凪の地。そこで和麻は来る日も来る日も、いわゆる虐待を受けていた。

 ただし、一族すべてから。


「はははっ! 見ろよ、こいつ! 紙みたいに飛んでったぜ!」

「すっげえなぁ。な、今度は俺にやらせてくれよ」

「待て待て、俺のほうが先だ。もっと向こうに飛ばしてやるぜ」


 一様に、たった今殺しかけた和麻のことなど目もくれずに遊びに没頭する子供達。まるでゲームのように彼らは無邪気に人を嬲っていた。


「――ぅ……か……」


 自らの身体の表面を焼かれ、呼吸も満足に出来ない和麻の口から、呻きにもならない乾いた音が漏れた。


 ――炎術。


 千年もの昔、神凪の始祖がこの世の人間、精霊、妖魔、あらゆる存在を超越した存在――精霊王――と契約したことで得られた大いなる力。

 常に世界に存在している精霊へと働きかけることで、人の身には起こしえない超常現象を起こす精霊魔術。四大元素の精霊の中でも火に特化し、そして彼の者の恩恵によってそれを極めた者達。

 炎術師の最高峰、神凪一族。

 魔を滅する黄金の炎は、千年の間に宗家でなければ出せないほどにその血は薄くなってはいたが、分家の者であっても神凪であれば炎は出せるし、精霊王の加護を得られる。

 ただ一人、神凪和麻を除いては。


「宗家のクセに、炎が出せないなんてなぁ」

「おまけに加護もないから火傷するし」

「ホント、無能だよな、こいつ」


 いかにも可笑しそうに笑いながら、彼らは神凪の間の和麻に対する共通認識を口にした。


 無能者。


 それこそが和麻に対しての神凪のすべてだった。

 稀代の炎術師にして蒼き神炎使い、神凪厳馬。その息子でありながら、なんの能力も持たずに生まれてきた和麻のことを、蔑まない者は宗主以外にいなかった。

 ここはホームにしてアウェイ。

 和麻にとって、ここは地獄でしかなかった。


「く……は―――」


 いつも通りのやり取りに、和麻はいつものように呼吸を整える。

 実際のところ、武術や学力ならばここにいる誰よりも和麻は上である。炎術が出来ないがゆえに努力を心がけた和麻の力は、もはや十歳にして高校生に余裕で勝利するほどだった。

 だがしかし、それでも。

 ここは一般社会ではなく神凪。普通の家庭に生まれたならば、その類まれなる能力を重宝されたであろう事実も、神凪での現実には敵わない。

 なぜなら一般人は術師には敵わない。それはただの驕りではなく、純然たる事実だからだった。

 そしてここは神凪。炎術師の究極にして大家。そこで無能者として蔑まれる和麻に、炎術以外で抗う術はなかった。

 炎術が使えるか否か。それが、ここでの全てなのだ。


 だから和麻はこの家のことをとっくに見限っていた。自分を憎む父、無関心な母、虐待を受ける毎日―――。

 いくら宗主が和麻のことを気にかけてくれていようと、宗主がたった一人のために時間を割けるわけもない。

 ゆえに、和麻はもう諦めていた。

 この神凪の家を。炎術を。なにより、自分の価値を。




 なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのだろう、と思ったことは数え切れない。

 炎をぶつけられ、身体が焼ける。精霊王の加護のない和麻は、当たり前のように火傷を負う。ただれる肌と、こらえられずに浮かぶ涙。

 無能者だからこんな目に遭うのだろうか。それとも、自分には価値がないからだろうか。

 だとしたらなぜ自分は生まれてきたというのだ。実の父親には憎憎しげにしごかれ、神凪の者達からはゴミのように蔑まれ、同年代からは道具みたいに殺されかける。

 痛い、と言っているのに。助けて、と叫んでいるのに。誰もが和麻を無視して、どれだけ泣き叫んで助けを乞おうとも誰も応えるものはいない。

 涙を流して、ただ願っているのに。

 何も難しいことを要求した覚えなんてない。そんなに贅沢なお願いなんかではないはずだ。

 生きたい。誰かに認められた世界で。ただ、それだけなのに。なぜ、叶うことがないのか。

 だから、自分には価値がないに違いないと思った。そして、価値が欲しいと祈った。しかしその願いさえも、蔑みと嘲笑の中に消えていってしまう。


 ―――心が、壊れていく。ゆるやかに、けれど確実に。




 家を出よう、という思いは随分前からあった。ある意味では当然ともいえる選択だ。このままここにいては遠からず殺されるだろう。遊んでいて、つい、殺されてしまう。

 それがわかっているのに、しかし、家を出てどうすればいいのかが判らない。なぜなら、価値のない自分が他人に評価されるはずがないから。

 呪詛のように囁かれ続けた言葉は、確実に和麻の生きる力を奪っていた。

 死に際の老人が抱くかのような諦念を、和麻は既にその胸に抱いていた。まるで、もう人生に疲れたとでも言わんばかりに、現状を受け入れて。

 物心がついてから毎日。まだたったの十歳の子供が抱くべきではない、疲弊しきった思い。ずっと抱えている虚無。磨耗した希望。いつまで続くのか判らない空しい日々。

 機械的にこなしていく日々の訓練と勉強。確実に強くなっていく肉体と増え続ける知識とは裏腹に、今にも壊れてしまいそうな心を抱えて、和麻は生きている。


 そんな彼に転機が訪れるのは、その五年後のこと……。











 十五になると、さすがに和麻も抵抗するようになっていた。


 鍛え続けた身体はしなやかな筋肉をつけ、岩場を駆けるガゼルのような柔軟さと雄雄しい虎のような膂力を彼に与えていた。

 炎を投げられたところで、かわせば事足りる。そして接近して一撃。それで事は済んだ。

 三度もそれを繰り返すと、さすがにもう和麻にちょっかいを出そうという者はいなくなっていた。

 それでも和麻は空っぽだった。どれだけ鍛えても、どれだけ焼かれて死に瀕しても、炎はついぞ得られることはなかった。

 たとえ素晴らしい格闘術と、気を操る術を得ようとも、副産物では彼は満足できなかった。どこまでも得たいと渇望した炎は、どこまでも彼にとっては幻想でしかなかったのだ。


「………………」


 広い庭にたたずみ、最近になって吸い始めた煙草をくわえる。ほんの少しとはいえ煙草を吸うと気が紛れる。それに気付いてからは、和麻は積極的に煙草を利用するようになっていた。

 火をつけると細い煙と独特の匂いが鼻をつく。そしてそのまま、空を見上げた。

 空虚だった。

 次いで、悔しかった。

 炎を出せず、価値を見出せない自分が。何をしても得られないものがあるという現実が。

 たまらなく、空しくて、悔しかった。


「―――……」


 紫煙を吐き出す。白い煙は風に乗せられて空を舞った。ふわり、となでるような風の感触に、わずかに違和感を感じ、しかしすぐに無視した。

 どこまでも、この世界は醜い。それが、和麻の中の全ての思いだった。

 空は青く澄んでいる。それがまるで、人間には決して届かないものがあるということを身を以って示しているようで、思わず和麻は顔を俯かせる。


 と―――


「あ〜〜〜っ!!」


 突然つんざくような大音量が響き渡り、和麻は反射的にその音源に顔を向けた。そして、わずかに目を見張る。


 腰まで届く綺麗な黒髪。活発さと、生命力に満ちた大きな瞳。間違いなく将来美少女と呼ばれるだろうと言い切れる容姿。和麻の記憶が正しければ今年で九歳になるはずの、神凪家宗主神凪重悟の娘、神凪綾乃の姿がそこにあった。


「何やってるんですかっ!」


 先ほどに比べて微かに音量の下がった声で再び叫び、綾乃は和麻のほうへとずかずかと歩み寄る。

 まだ呆けている和麻の目の前まで来ると、なぜか背伸びをし始めた。

 ほのかに顔を紅潮させてその小さな身体を懸命に伸ばして手を上に突き出す姿は、その整った顔立ちも相まってとても可愛らしいものだった。

 しかし、この少女は何をしたいのか。和麻は突っ立って身じろぎもせず、目の前の少女の奇行を眺めていた。

 しばらくそうしていると、綾乃は背伸びをやめて息を整えるように肩を上下させる。そして、きっと和麻のほうを見つめる……というか、ちょっと睨んでいた。


「……少し、かがんで」

「は?」

 ほとんど条件反射に聞き返すと、

「かがんでって言ってるの!」


 いきなり現れて怒鳴りつけられることに、和麻は正直カチンときていたが、そこは年長者の余裕でしぶしぶながら膝を曲げて綾乃の高さに合わせた。

 すると、その途端綾乃は得たりとばかりに、にんまりと笑みを浮かべ、

「えいっ!」

 和麻のくわえていた煙草を奪い取った。

 そしてそれを即座に足元に落としてぐりぐりと踏みつける。

 数秒して足がどけられると、そこにはまだ吸い始めたばかりの長い煙草が泥にまみれてひしゃげていた。


「……おい」

 これにはさすがに和麻も納得いかなかったのか、ドスのきいた声で綾乃の目を見る。

 しかし、綾乃は和麻以上に険しい顔つきで和麻を睨んでいた。


「お兄さん、まだ未成年でしょう! 煙草なんて吸っちゃダメなんだからっ!」


 びしっと人差し指を突きつけて、断罪するかのようにそうのたまった姿を見て、

 和麻は文字通り絶句した。

 九歳の子供に指を突きつけられて説教される十五歳(高校一年)。しかもわざわざ彼女の目線に合わせてしゃがんだ状態。

 そのままの姿勢でお互いに動かずに数秒が経過。


 一陣の風が、むしろ爽やかに彼らの間を通り抜けた。



「―――くっ……くく……」


 沈黙を破ったのは和麻。しゃがんだ体勢のまま、俯いて肩を震わせている。

 初めは唐突な和麻の変化に戸惑っていた綾乃も、和麻が笑っているということに気付いた瞬間、今まで以上に和麻をにらみつけた。

「な、なにがおかしいのよっ!」

 顔を真っ赤にして睨んでくる姿に、和麻は今度こそこらえきれずに爆笑した。

 げらげらと目の前で遠慮なく笑われ、綾乃は怒りと羞恥と悔しさで顔をさらに赤くさせる。……ちょっと、その身体から火の粉が舞っていることは些細なことだ。

 それでも和麻は遠慮なく笑い続け、いよいよ我慢の限界を超えたのか、綾乃はその細く白い脚を背中側に振り上げ―――

「えいっ!」

 思いっきりスネを蹴りつけた。

「ぐおっ!?」

 これにはさすがに堪らず、和麻は苦悶の表情と声を漏らす。目じりに涙さえ浮かべて、恨みがましく綾乃を見る。が、件の少女はどこか達成感すら感じられる清々しい顔をしていた。

「つぅ……て、てめぇ……」

「むっ……綾乃!」

「―――は?」

 突然、自分の名前を宣言する少女に、和麻は怪訝な視線を向ける。

 それに綾乃はまなじりを吊り上げて応えた。


「だから、あやの! あたしの名前は、てめぇなんかじゃないの!」


 ああ、そういうことか、と納得しながら和麻は不思議な気分を味わっていた。

 目の前にいるのは神凪の宗主の娘。和麻は実際に見たことはないが、その炎術の才はこの歳にして既に現れているという。そのことに少なからざる憧憬と羨望を禁じえなかったことを覚えている。

 そして彼女はその愛らしい容姿と、さっぱりした人好きする性格も手伝って、神凪の姫のような扱いを受けていた。また宗主がそれを諌めず、娘可愛さに暴走をするものだから、なおさらその傾向は高まっていった。

 分家の中には、将来綾乃の傍に仕えたいと思う少年少女が多いとも聞く。それは一種のカリスマであったのかもしれない。

 神凪の至宝、精霊王より賜りし神器『炎雷覇』を受け継いでいない身でありながら、綾乃は既に神凪の中で確かな立場を築きつつあった。

 その次期宗主の呼び名も名高いこの少女が。自分には遠すぎて高すぎて、届くことなど考えるだけで馬鹿らしいと思える少女が、いま目の前にいる。

 しかも、顔を真っ赤にして、頬をむくれさせて。どこからどう見てもただの小学生だった。神凪なんて、まったく毛ほども感じさせないほどの自然体。

 地獄の釜よりも酷く醜いと思っていたこの場所で、彼女だけは違っていた。ただ純粋に、接してくれている。いま、この場所で。

 それが和麻には嬉しかった。ただの和麻として、この少女は見てくれていた。ただの少女として、和麻のことを。

 そのことに安らいでしまった。敵しかいないこの家で、わずかなりとはいえ気を抜けたことがおかしかった。それをしてくれたのが、たった九歳の少女であることも。


 ふっと、微笑む。優しげな、どこか満足したような、そんな笑み。


 価値はあった。この少女を怒らせる程度の価値は、自分にはあるのだと思えた。

 それは救い。辛苦と絶望しかなかった中で唯一感じられた、初めての光。

 それを得られたことが嬉しくて。たまらなく、和麻は幸せな気持ちになることが出来た。


 風が、流れた。



「―――……」


「?」

 不意に、目の前の少女の雰囲気が変わったように感じた。風に乗って、なぜか伝わってきた、その違和感。
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 ちらりと目を向けると、そこには怒りでも羞恥でもない何かのせいで頬を染める綾乃の姿があった。

「……なんだ?」

「―――ッ! な、なんでもないっ!」

 そう言うと綾乃は脱兎のごとく和麻から走って離れていく。それを失礼なやつだな、と思いながら見送っていると、くるっと綾乃はこちらに身体を反転させた。


「お兄さんっ、お名前はっ!?」

 一瞬、呆気に取られてすぐに口元をゆがめる。

 自分の存在を認めてくれている、そのことに嬉しさを感じながら、和麻は返す。

「和麻だ! ありがとな、綾乃!」

「へ? ……うん、またね、和麻!」


 大きく手を振りながら元気に走り去っていく綾乃の背中を見送り、和麻はひとつ息をついた。


「ふぅ……」

 ―――まさか、十にも満たない小娘にな……。


 それが今の心情だった。九歳の女の子に自分の価値を認めてもらって、ここまで心が喜んでいる自分を、ちょっと情けなく感じる。

 それでも、やはり嬉しかった。神凪の中で初めて自分の存在を認めてくれた存在。それが、父親でなかったのは少し悲しいが、それでも余りある嬉しさだった。

 強くなった自覚はあった。分家の連中になら炎を使われても勝てはしないだろうが苦戦させる自信はある。努力に裏打ちされた確かな自信だった。

 しかしそれでも自分そのものに対しては自信なんて欠片もなかった。なぜなら、これまで一度たりとも自分に価値を見出されたことがないからだった。宗主が和麻を思う気持ちは確かにあるだろうが、それは哀れみからだと和麻には思えた。

 しかし、いま出会った。自分の名を知らなかったとはいえ、煙草を吸う自分を見てそれを咎めてくれた少女。どうでもいい存在ではない、と言外に思われている。そのことが、何よりも嬉しかった。

 泥にまみれた煙草を拾い上げる。もう二度と吸えないであろうそれを指でもてあそびながら、和麻は空を見上げた。

 風が頬をなでる。それがとても気持ちよく感じ、和麻は目を閉じた。

 かつてないほどに穏やかな気持ちで今日という日を振り返り、和麻は一言つぶやいた。


「……あいつ、年上を呼び捨てかよ」


 とても、穏やかな顔で。




















〜あとがき〜

「風の聖痕」のSSです。
和麻×綾乃至上主義ってわけではないのですが、読んでいてふと書きたくなったのです。
主に五巻終了後に。五巻は……驚きましたからねw
七年前に出逢っていたら、というIF設定です。
風の聖痕、知ってる人いますかね? 有名だとは思いますけど。
まぁ、とりあえず感想とか欲しいです。
よろしくお願いします。