NEON GENESIS EVANGELION

シト/ヒト



第零話 運命の、少年



















AD2004年初夏――ジオフロント内庭園、湖前

男の子は飛び回っていた。





 それは何にも縛られない、自由奔放な姿だった。何が楽しいのかずっと笑って、転がるように湖の周りを走り抜けていく。


 碇シンジ、三歳。まだつい先日に誕生日を迎えたばかりの彼は、父母ともに手を焼くほどの快活な子供として、家でも外でも両親を引っ張りまわしていた。

 とはいえ、父ゲンドウはもともと明るいとはいいがたい性格をしており、シンジにかまって遊ぶことはめったに無い。

 それもあって、もっぱらシンジの面倒を見るのはユイになっていた。

 今日もそんないつもの一日。

 仕事のこともあって、シンジをジオフロントに連れてくることは珍しいことではなかった。この一年でジオフロントもだいぶ整備が進んでいる。もし解放すればいっぱしのデートスポットにでもなるかもしれない。

 自然を多く取り入れているこの場所は、地下といえど空気が澄んでいる。あるいはそれこそがここの秘密の一つなのかも、と思考が及んでユイはため息をついて軽く頭を振った。

 子供といるときにまでそんなことを考えるなんて。

 研究者としての自分に、苦笑が浮かんだ。

 目を先に向ければ、まだ三歳にになったばかりの我が子の姿。思いっきり走り回っているその姿にユイは危なっかしさを感じて、少々声を張り上げて注意を促した。


「あんまり走って、転んだらダメよー!」


 はーい! と威勢のいい舌っ足らずな返答が返ってきて、思わずユイも口元が緩んだ。

 こういうときに、思うのだ。


 幸せだ、と。


 こんな時間、こんな生活、幸せな日常。これをあの子に残したいから、いま自分はアレを研究しているのだ。

 黒き月。この場所に眠る、例の巨人。


「リリス……」


 だが、研究はここに来てスローペース……はっきり言ってしまえば完全に行き詰ってしまっていた。

 人類の希望、エヴァンゲリオン。その完成のためには、魂が必要なのだ。しかし、魂に関する理論は証明されてはいるものの、机上の空論の域を出ない。

 なにしろ、実物が無いのだから。

 自分の提唱した理論で、魂の存在は確立されている。あとは、彼ら“使徒”の魂に関する情報だけなのだ。

 それさえあれば、エヴァは大きく完成に近づく。

 しかし、そんなものがどこにあるというのだろうか。


「はぁ……、でも急がないと――……」


 行き詰っていようが、時間は待ってはくれない。

 何とかしなければいけないのだ。

 もう、人類には時間が無いのだから。
















 シンジは転んでいた。

 走り回っているうちに、足元の草が靴に絡まり、つんのめって転んでしまったのだ。

 派手に顔からスライディングしたが、痛いという以前に何が起こったのか混乱していて涙も出てこなかった。

 もぞもぞと座り込んで右ひざを見てみると、じわっと赤い液体が盛り上がってくるのが見えた。

 その段になって、シンジはようやく痛みを自覚した。血を見て本能的に恐怖を感じたのかもしれない。とにかくシンジはズキズキと痛む足を抑えて、泣き出そうと息を吸い込んだ。


“………………”

「……ぅ?」


 だが、それが現実になることは無かった。

 シンジはどこからか感じた何かに、なぜだか声を荒げて泣くことを取りやめてしまったのだ。


“………………”

「なに……?」


 声、ともいえない何かの意思を感じて、シンジは痛む右足はそのままに、意思を感じるほうへと地を這うように移動していく。

 草を掻き分け掻き分け、シンジは冒険家にでもなったような高揚感を心の隅で感じつつ、目的の場所へと分け入っていく。

 草をどかし、途中出会ったカマキリに怯えながら進んでいくと、そこは湖のほとりだった。手を伸ばせば水に手が触れるほどの、近い場所。

 そこにシンジは辿り着いた。


“………………”

「……ここ? どこにいるの?」


 近い、となぜかシンジは確信してきょろきょろと地面を見渡す。

 なぜかシンジはこの意思のことを、誰、とは思わなかった。考える前に、この存在は、何、と表現するべきだと理解していた。

 とにかくシンジは、その何かを探し始めた。

 がさがさ、と草同士がこすれる独特の音があたりに響く。

 そうして、シンジがこの場について一分もしたかどうか、という頃。


「あっ!」


 草の陰にきらりと光る何かを見つけて、シンジはそれを手にとった。


「きれい……」


 それは赤い玉だった。

 ビー玉大。それよりやや小さいかもしれない、そんなすぐに見落としてしまいそうな小さな紅玉。それはしかし、ビー玉にはない質感と、宝石にはない輝きがあった。

 シンジはしばらくの間、それに見とれた。


“………………”


 再び、シンジはその意思を感じた。

 それは間違いなく手の中のそれから発せられている、とシンジは直感した。

 そしてふと、本当になぜかわからないのだが、心に浮かんだ言葉があった。赤い玉でしかないそれに、絶対に不似合いな単語。しかし、シンジはその言葉が間違っているとは欠片も思えなかった。

 だから、心のままに浮かんだ言葉を口に出した。


「……おかあさん?」


 そう呟いた瞬間、赤い玉はカッと一瞬だけ大きな光を放った。


「わあっ!!」


 思わず叫び、それでもシンジはその玉を持ったままで目をつぶった。

 しかしその光が放たれたのは本当に一瞬だった。

 目を開いたときには、赤い玉はもう光っていなかった。ただ、少し色が黒ずんだような気がする。


 キ―――――ン!


「うっ……!」


 唐突にシンジを耳鳴りが襲った。

 耳が潰れるんじゃないか、というほどのそれに涙目になったシンジは、耳鳴りが消えていく中、その最後の瞬間に声を聞いた。




“……ただいま……”




 はっとして、シンジは口を開いた。


「お、おかえりなさい?」


 これもまた、なぜかシンジは間違っているとは思わなかった。


“――――……”


「へ? ぼく、そんななまえじゃないよ?」


 最後に赤い玉は一言だけ告げて、しかしそれ以降、赤い玉は何の反応も示すことはなかった。

 シンジは首をかしげるが、気にしないことにしたのか笑顔を浮かべる。

 そして満足げに母親のところへと戻っていった。



















 ユイは遠くから歩いてくる息子を見つけて、ふっと笑みを漏らした。しかし、すぐに顔をこわばらせてシンジのもとへと駆けていく。


「シンジ! どうしたの、なんで泣いてるの?」


「え……?」


 シンジはユイの言葉に首をかしげた。確かに痛い思いはしたが、泣く前に涙をこらえたから、泣いていなかったはずだ。

 だから、ユイの言葉が不思議だった。

 しかし、ユイは視線をずらしてシンジの右ひざを見ると、納得した顔をして、すぐに心配そうな顔になった。


「ああ、転んじゃったのね。大丈夫? 痛かったでしょう」


 ユイはシンジの頭を撫でてやりながら、問いかけた。

 それにシンジは満面の笑顔を浮かべた。これにはユイのほうが面食らって、驚きの表情でシンジを見つめ返した。


「ううん、だいじょうぶ! あのね、ひとりじゃなかったから、へいき!」


 ユイはその言葉に訝しげに眉を寄せた。

 一人じゃなかった、とはどういうことだろう。研究員の誰かがいたのだろうか。それならいいが、どこかの組織の諜報員という可能性もある。ゲヒルンには、狙われる理由が多く存在する。わずかにユイの顔色が青くなった。


「……そう、誰が一緒にいてくれたの?」


「おかあさん!」


「…………え?」


 息子の回答に今度こそユイは目を丸くした。


「だからね、おかあさん。でも、おかあさんのことじゃないの。ちがうおかあさん」


 それを聞いて、ユイの脳裏に閃きのようにある推測が浮かび、こめかみに青い筋が浮かんだ。


(……お母さんじゃないお母さん。違うお母さん。……そう、浮気なのね。ふふ……ゲンドウさん、死にたいようね……)


 暗い笑みを浮かべてニヤリと笑うユイには気付かずに、シンジはニコニコと話を続ける。

 マイペース。ここら辺はユイにそっくりだ、とはゲンドウの談。

 ちなみにこの瞬間、どこかの研究所の所長室で、ある男がぶるりと身を震わせていた。


「うんとね……これ!」


 シンジは手に大事に握り締めていたそれを、ユイの目の前に差し出した。


「あら、綺麗な石ね。ビー玉……とも違うみたい。どうしたの、これ?」


「ひろったの。これ、おかあさん!」


「………………え?」


 ユイはシンジが何を言っているのか、理解できなかった。

 目の前に出されたのは紛れもなく赤い玉である。しかし、これを指してシンジはお母さんといったのだ。

 なにがどうなれば、これをお母さんと認識できるのか。ユイは首をかしげながらも、とりあえず聞いてみることにした。


「えっと……、どうしてこれがお母さんなの?」


 その質問に、シンジはきょとん、とした顔を浮かべた。


「んー……わかんない。でも、おかあさんってかんじなの。ただいまっていったから、おかえりなさいって、ぼくかえしたの」


 ますますわからない。ユイはさらに頭を抱えた。


「えーっと……ただいまって言ったの? この赤い玉が?」


「うん!」


 ニコニコと言う息子に、ユイは、きっといつか読んで聞かせた絵本の内容か何かと現実を混ぜて考えているんだろう、と結論付けた。


 そうして考えると、なんだかそんな息子が可愛く思えてくる。ユイも満面の笑みを浮かべてシンジの頭を撫でた。


「そう、よかったわねシンジ」


「えへへ……」


 撫でられるのが満更でもないのか、シンジは嬉しそうに笑った。それがまた可愛くて仕方が無い、というふうにユイはとろけんばかりの笑みを見せていた。

 そして、シンジはもっとさっきのことを言えば褒めてもらえると考えた。

 だから、シンジは最後にこの赤い玉が言った言葉を母に伝えようと思った。そうして、また褒めてもらおう、とそう思って。


「あのね、おかあさん」


「ん、なあにシンジ」


 そして、最後に聞いた言葉を話す。




「このたまね、ぼくのことをね、『りりん』ってよんだの」




 ユイの笑顔が凍りついた。































その十七分後、人工進化研究所(ゲヒルン)所長室






「ゲンドウさん!!」


「わ、私は浮気などしていないぞ、ユイ!」


 ユイはシンジを抱き上げて一目散にゲヒルンの所長室へと駆け込んだ。

 これまでの、そしてこれからの研究の未来を左右する重大事項であるから、決して運動神経の良いいわけではないユイがこうして必死に急いできたというのに――。


「……あら、ゲンドウさん。言い訳なさるということは、身に覚えでも?」


 なんだか勢い込んで走ってきたのが馬鹿みたいに感じ、さすがにユイも気分を害していた。

 ふふふ、と笑う顔は、問答無用に怖かった。


「う……、そ、それより一体そんなに急いでどうしたのだ」


 何となく言っておいたほうがいい、と感じたがゆえの一言だったのだが、むしろ怒りを買ってしまったらしいことにゲンドウは何とか話を逸らせようとする。

 そのゲンドウの言葉に、ユイははっとしてついさっきまでの笑顔を消し、真剣な表情を浮かべた。

 ゲンドウは内心でほっと息をついた。

 しかし、そんな思いもすぐに吹き飛ぶことになる。



「……よく聞いてください、あなた。リリスのコアらしきものを見つけましたわ」


「なに!?」



 思わずガタン、と椅子を弾き飛ばして立ち上がる。



 リリス。

 第二使徒と位置づけられし、第一使徒アダムと対となる我ら人類の祖。

 『黒き月』にて磔にされた神に背きし者。

 そして、人類の最後の希望であるE計画の中核を為すものである。

 これまで、身体本体はジオフロントの地下部分にて発見し管理されていたが、そのリリスからは使徒に存在するはずのモノが存在しなかった。

 すなわちコア――S2機関である。

 夢の半永久機関、スーパーソレノイド。葛城博士が提唱したそれは、使徒の持つ異常なまでのエネルギーの根本と目されている。

 それは使徒にとっての命であり、魂であるともいわれている。

 そしてそれが存在しないということは、つまり今のリリスは魂の抜けた抜け殻でしかないのだ。いくらコピーしてエヴァを造ろうとも、生物である以上は魂がなければ動きようが無い。

 もしユイの言うことが本当であるとするならば、これはE計画における最大のネックの解消に間違いなかった。


「……事実なのか?」


 動揺を押し殺し、ゲンドウは極めて鋭い目つきでユイの言葉を吟味する。ユイに問いかける言葉であったそれは、自分の期待も多分に含んでいる、とゲンドウは自覚していた。

 それら全てを理解した上で、ユイは頷いた。


「ええ。シンジが……恐らく選ばれた」


「シンジが!?」


 ゲンドウの顔に再び隠しきれない驚愕が浮かぶ。

 ゲンドウは科学者としても優秀であったが、それよりも対外的な交渉術にその異才を発揮していた。冷徹な仮面、心を表さない顔、威圧的な雰囲気、それらゲンドウの悪所ともいえるところは全て、他所との折衝においては実にいい方向へと働いていた。

 そういったことに優秀なゲンドウであるから、一度自分を取り戻すと崩れることはほとんど無い。

 にもかかわらず、立て続けに二度も動揺を表に出してしまったのだ。いかにゲンドウが常の状態にないかが窺える。


「さっき、湖の傍でシンジが小さな赤い玉を拾ったわ。それで、シンジが言うには赤い玉が語りかけてきたそうよ。『ただいま』って。
 ……そして、シンジのことを『リリン』と呼んだ、らしいんです」


「『リリン』、それは……」


「ええ。十八番目の使徒。私たち、人類のことです」


 裏死海文書に記載された十八までの使徒。唯一リリスより生まれたとされる、群体の使徒リリン。それは、我々人類のことであると記されていたのだ。


「……神に背いた罪深き母、リリス。その子、我らリリン……か。しかし、シンジは……なぜリリスを見つけられたのだ?」


 シンジが見つけた小さな玉、というぐらいなのだから、恐らくシンジの手に乗るほどに小さいのだろう。

 これまでに見つけられなかったのも無理もないかもしれない。しかし、それだけではゲンドウは納得できなかった。

 なにか、シンジでなければならない理由があるような、そんな気がしたのである。


「恐らく……仮説になってしまうのですけど……」


 自信なさげにユイの眉がひそめられる。

 科学者として、まだ確証のない考えを述べたくはないのだろう。

 しかし、科学者として碇ユイは紛れもない天才であり、ゲンドウには思いもつかない発想を軽々としてのける。

 だからこそ、ゲンドウはユイに先を促した。

 ユイは意を決して、言葉を紡ぐ。


「恐らくシンジは―――、」










































その十一年後、第3新東京市市街道路上

彼は、自らの兄弟を見上げた。





「使徒……」







AD2015年8月6日木曜日。使徒迎撃要塞都市、第3新東京市。

使徒、襲来。















―――To Be Continued