「あら、かわいい女の子。ミスター・ゴートの隠し子?」 「こんにちは。ボク、ウサたん! お名前は?」 「おや、プロスペクターさん。隣のかわいいコたちは新入りかい?」 ナデシコ搭乗初日。 プロスペクターとゴートに連れられて艦内を歩くあちこちで、声をかけられる。 ルリはちらりと隣の妹に目を移す。 自分のほうはそれを懐かしくも温かく思って、声をかけられるたびに心が喜んでいることがわかるのだが、妹のほうはそうもいかないようだ。 それも当然、なにしろ知らない人ばかりなのだ。もといたところがアレなだけに、これほど多くの人に囲まれる経験がないのだろう。 雪谷食堂の場合は、食事に集中していたから問題ない。今は文字通り自分が注目されているのだ。慣れない妹が緊張しないはずがなかった。 とりあえず、名前ぐらいは伝えましょう、と小さく耳に囁くと、どこかおどおどとしつつも、こくんと頷く。 それからは一応、聞かれれば答えた。名前と担当と年齢ぐらいの、簡素な自己紹介だったが。 「はじめまして、ホシノ・ルリ。オペレーター。11歳です」 「……ラピス・L・ホシノ。サブオペレーター。5歳」 ルリの年齢にみんなが驚いた。
「いや〜、だってルリちゃんって11歳には見えないじゃない? 14、5歳くらいかなぁって思ってた」 「あ、あたしもです。ホント、ルリちゃんって大人びてるよねー」 「……私、少女です」 ナデシコ艦橋。 ハルカ・ミナトは操舵士の席に、メグミ・レイナードは通信士の席に。そしてルリとラピスはオペレーター席に座って歓談していた。 前日の自己紹介から、ルリは艦内で何度もその手のことは言われている。気にならないでもないが、この成長は不可抗力なのだから仕方がない。今でこそ身体に痛みはないが、数ヶ月前までは成長の際の痛みでひどく苦労したのだ。どちらかというと、11歳のままのほうがよかったとまで思ったほどだった。 内心、ため息混じりにそんなことを考えていると、くいくいと制服を引かれているのに気づく。そちらに目を向けると、ラピスの小さな手が裾を握っていた。 「……ルリ姉、大人びてるんならよかったんじゃない?」 「ラピス?」 ルリの斜め後ろに備え付けられたサブオペレーターの席に座りながら、ラピスがルリの制服をわずかに引っ張ったまま言う。 ラピスについては自己紹介のときにルリとは違う意味で一悶着あり、主にミナトがプロスペクターとゴートに詰め寄っていた。 「こんなに小さい子を戦艦に乗せるのか!」と。 それにプロスペクターが事情を説明。マシンチャイルドは今や三人しかおらず、その能力の高さなどから狙われる立場にある。しかし、ナデシコに乗せることで手出しが出来なくなる。 もう一人については里親がいるので問題ないが、ルリとラピスについては名義上の親はいるが、基本的に研究が第一目的だ。それゆえに、二人は最優先で保護しなければならない、と。 その説明にミナトはとりあえず納得したのか、矛先を収めた。 そして、ミナトはなにかとルリとラピスに声をかけるようになった。昨日の一日で、ラピスもミナトのことは気に入ったらしく、わりと彼女の前で表情も出すようになっている。 この分ならメグミにもすぐに慣れるだろう、とルリは嬉しく思っていた。 そしてそのラピスが突然よく判らないことを言って、自分に同意を求めている。それはわかるのだが、いったい何が言いたいのかわからないルリは首を傾げるしかなかった。 しかし、そんなルリの余裕の態度もすぐに崩れることとなる。 「だって、そのほうが早くアキトと結婚できるんじゃないの?」 「らッ……!」 「「え〜〜〜〜〜ッ!!」」 思わず叫びそうになったところで更に大きな二つの声にさえぎられ、ルリの呼びかけは儚く消えた。 そして、獲物を見つけた肉食獣のように目を光らせた二人が、その双眸でルリを見据える。 冷や汗を流しながら、ルリはその目線を受け止めた。一瞬の後、問答無用の質問会が始まる。 「ルリちゃん、アキトさんって!? 恋人なの?」 「ち、違いますっ!」 「あらあ、顔真っ赤にしちゃって、照れなくてもいいのにぃ」 「それも違いますっ!」 「でも、結婚するんでしょ?」 「しませんッ! 私、11歳です!」 「えー、じゃあ成長した時にそのアキトくんと結婚したいとは思わないの?」 「そ、それは……」 「「うん。それは、それは?」」 「〜〜〜〜〜〜ッ!」 「「ルリちゃん、かわいい〜〜!」」 「〜〜ッ! ら、ラピス――ッ!」 「ふぇッ!? な、なんでわたしなの――!?」 からかうミナト・メグミペアに耐え切れず唇を噛んだルリは、事の元凶である己が妹へとその感情をぶつけるべくその手を伸ばす。 しかしラピスも怒った姉の恐ろしさは十分に理解しており、理由はわからないままにとっさに逃げ出す。 かくしてブリッジの下段は二人の少女の鬼ごっこの場となってしまった。 それを見てさらに笑みを深めるミナトとメグミ。そして反対に顔を険しくさせる上段の連合軍人たち。中でもマッシュルームカットの男性は両目を吊り上げてその光景を見ていた。 張り詰めるブリッジ上段の空気と、緩みっぱなしの下段の空気。同じ空間ながらまったく異なった雰囲気を見せる奇妙なブリッジの中で、新しい来訪を告げるスライドドアの空気音がかすかに響いた。 「あ〜、ここだここだ!」 底抜けに明るい声が突然降ってきて、ブリッジの全員がそちらに視線を向ける。それを認識しているのかいないのか、濃い青色の髪をしたその女性は笑顔のままで自己主張するように手を上げた。 「はじめまして〜、わたしが艦長のミスマル・ユリカで〜す! ブイ!!」 「「「「ぶいぃ?」」」」 「……ば、バカ……?」 息を乱しながらも呟くラピスの隣で、ルリが小さく「私のセリフ……」とこぼしたことは誰も知らない。 「艦長……本当なら昨日乗り込んでいるはずのあなたが、なぜ一日も遅れたのかお聞かせ願いたいのですが……?」 メガネのずれを直しながら凄むプロスペクター。その額にはかずかに青筋が見て取れる。さすがにマズイと感じたのか、ユリカの笑顔も苦笑いになっていた。 隣に立つ青年はそんな彼女の姿に、ため息をついている。 「あ、あはははー」 「はぁ……だから急いでって言ったのに。――皆さん、初めまして。副長のアオイ・ジュンです」 ぴしっと礼儀正しく敬礼をしたジュンに、クルーはそれぞれ、よろしく〜と気軽に返す。軍属であるならば考えられないあまりにも軽い返事に、ジュンは呆然として驚いた。 民間の戦艦であるということは理解しているようだが、士官候補生としての自分を誇りに思っている彼にしてみれば当たり前かもしれないが。 そしてその隣では相変わらずユリカがプロスペクターに詰め寄られている。 じりじりと迫ってくるプロスペクターの圧力に、いくぶん顔を青くしながらユリカもあとずさっている。 「艦長、ですからどうし―――」 しかし、そのプロスペクターの言葉が中途半端に途切れる。 不自然な言葉の切り方も、しかし誰も気にしていない。艦内に突然大きく響く警告音。ビー、ビー、というその音は、人に警戒心を抱かせるには十分な音量でもって耳に届いていた。 一気に緊張感を見せるブリッジ。 「これ、避難訓練ですか?」 とはいえ、緊張感のない者も中にはいる。 これは避難訓練ではない、とルリは忠告しようとしたが、その言葉を口にする前にウインドウがルリの前とメインモニターに現れた。 『警告! 木星蜥蜴による襲撃! 連合軍が応戦中!』 その文字の意味を理解すると、瞬間、振動がナデシコまで伝わってきた。大した衝撃ではなかったが、それでも間違いなくこのドックの地上部分が攻撃を受けている、と誰もが感じることが出来た。 さすがに状況を理解したのか、メグミも青い顔をしている。 「か、艦長! 早くマスターキーを!」 「はーい。えい!」 プロスペクターに急かされ、ユリカは鍵状のマスターキーを取り出して、艦長席の鍵穴にそれを差込み、回す。 それによってこれまで静かだったナデシコが、小さな振動音とともに動き出す。ブリッジからはわからないが、同時に艦の動力部でエンジンやジェネレーターが急速に働き始めていた。 それを伝えるウインドウが空中に浮かぶ。 『マスターキー確認。相転移エンジン始動します』 それを確認して頷き、ルリはさらに指示を出した。 「艦内のチェックもよろしく」 『はい。艦内チェック開始……終了。艦内最終チェック完了。異常ありません』 「ありがとう、オモイカネ」 『どういたしまして』 ルリがオモイカネと話していると、そのやり取りを目に留めたのか、メグミがルリの手元を覗き込んでくる。 「あれー。ルリちゃん、それなに?」 「ナデシコに積まれているコンピュータのオモイカネです。コンピュータといっても人格を持っていますので、メグミさんもたまに話しかけてあげてください」 「私も大丈夫かなぁ、ルリちゃん」 それまで作業に集中していたミナトも会話に加わる。声と視線は二人に向いているが、それでもその手元が動き続けていることが、凄いといえば凄い。 「はい。オモイカネ、この人たちはハルカ・ミナトさんとメグミ・レイナードさん。挨拶してあげて」 『はい。ハルカ・ミナトさん、メグミ・レイナードさん。管制AIのオモイカネです。よろしくお願いします』 「あら、ご丁寧に。ミナトでいいわ、よろしくね」 「あたしもメグミで。よろしくね、オモイカネ」 「あ、わたしもだよ、オモイカネ!」 それまで静かだったラピスも三人の会話加わってくる。除け者にされたように感じたのだろうか、わずかに頬を膨らませているその姿はとても愛らしいものだった。 『はい。ラピスも、よろしく』 その返答に満足そうに笑うラピス。それを見て、ルリもミナトもメグミも顔をほころばせた。 「それで、艦長。なにか意見はあるかね」 和やかな女性陣とは反対に、厳しい顔つきで作戦を思案しているのは上部の人間。提督であるフクベ・ジンの言葉に、ユリカはわずかに考えるそぶりを見せる。 「決まってるじゃない! 上に向けて主砲を発射! 敵を焼き尽くすのよ!」 しかし答えたのは艦長のユリカではなく、副提督のムネタケ・サダアキ。キノコ形の髪の毛の下の目つきは真剣そのもの。それを見やって、ルリはため息と共に報告する。 「ナデシコの主砲は前方にしか撃てません。この状況では上に転回できませんので、不可能です」 「それに、それって上の軍人さんはどうなるの?」 「非人道的っていうんですよね、こういうの」 「バカ」 追随するようにミナトトメグミ、ラピスにまで反論を食らう。論理的に、人道的にも自分の意見を否定されて、ムネタケはさすがに言葉を詰まらせた。 そしてその間にユリカが己の考えた作戦を高らかに伝える。 「海底ゲートを抜けて、いったん海中へ。そのあと浮上して、敵を背後より殲滅します!」 その作戦に満足そうに頷くフクベと、感心した様子のプロスペクター。自らの目に狂いはなかった、といったところだろう。 ジュンも心酔といった様子で、陶然とユリカを見ている。 「しかし、それでは囮が必要ではないか?」 軍属経験もあるゴートは、すぐさまその作戦の必要項目に気がついた。 ゴートの言うとおり、たとえ浮上したとしても敵がバラバラに動いていては殲滅など不可能。一網打尽にするためには、敵を一箇所に留めておく囮役が必要だった。 「そこで俺の出番さァ!」 そう勢いよく叫んでブリッジに来たのは現在ナデシコで唯一のパイロットの、ヤマダ・ジロウ。やる気をみなぎらせた顔で拳を握りこんでいる。 それを見て、ルリはなんだか不思議な気分になった。 正直、ルリにとってはそれほど思い出のある人間ではない。彼女の記憶では真っ先に死んでしまった赤の他人でしかないのだ。しかし、アキトにとっては大切な友人。今度こそ死なせない、というアキトの決意はその気持ちを汲んだルリも同じだった。 が、こうして改めて本人を見ると、あのとき死んでしまった人に会う、というのはなんだか落ち着かない気持ちにさせた。 「ヤマダ・ジロウさん」 「ダイゴウジ・ガイだ!!」 あまり親しくなかったルリでも、彼のその決まり文句はよく覚えている。しかし、わざわざ別名を告げる気持ちがルリにはどうしてもわからなかった。 「……どっちでもいいですが、大丈夫なんですか?」 ルリの言葉に全員がガイのほうへと向く。ガイの左足は明らかに包帯とギプスで覆われている。誰がどう見ても骨折のときの処置に見えた。 「おめぇ、骨折しただろうが。大人しくしてろよ」 皆の考えを肯定する言葉を呆れたように呟く、整備班長のウリバタケ・セイヤ。メガネの奥の目は本当に呆れているといった様子でガイのことを見ていた。 ようやく気づいた、というわけでもないだろうが、ガイはそれにショックを受けたような表情を浮かべる。 「し、しまった……」 (やっぱり、骨折したんですか……) ルリも内心でため息をつく。前回、もしアキトがいなかったらどうなっていたんだろう、と思うと今度は本当にため息が出た。 「えーっと、他にパイロットはいないの、……ルリちゃん?」 唐突にユリカに話しかけられ、ルリは内心でドキリとした。彼女にとってルリは初対面だが、ルリにしてみれば大事な姉にして家族だった人。何も感じるな、というのは無理だった。 しかし、この人はわたしの知っているユリカさんではない、と言い聞かせる。 確認するように自分の名を呼ぶ声。記憶と寸分違わぬユリカの声。だが、違うのだ。たとえ姿かたち、DNAまでが同じでも、自分が姉と慕って一緒に過ごしたユリカでは決してないのだから。 わずかな逡巡。しかし、ルリは落ち着いて返答する。 「――ルリで合ってます、艦長。現在、ナデシコ内にいるパイロットはヤマ「ダイゴウジ・ガイ!」……ダイゴウジさんだけです」 冷静な声でその事実を告げると、艦長は考え込み、副提督はまた騒ぎ出した。ミナトは仕事を続けているし、メグミは今のところは大きな仕事がない。ラピスは退屈そうに足をブラブラさせている。 ざわざわとした艦橋内。 その中で、プロスペクターのため息はなぜか大きく聞こえた。 「……ルリさん、彼はまだいらっしゃらないのですか?」 「連絡を取ってみます。ちょっと待ってください」 そう言ってコンソールに向かうルリを騒いでいた皆も静かになって一瞥し、次いでプロスペクターへとその視線は移る。 「なんのことですか、プロスさん?」 ユリカの問いかけにプロスペクターは答える。 「いえ、今日搭乗予定のパイロットの方がいらっしゃいまして。ひょっとしたら近くにおられるかもしれないと思ったわけです。ルリさんはその彼とお知り合いなものですから、彼女に聞いたのですよ、はい」 へぇ〜、と暢気にも納得の表情を浮かべていると、いい加減キレたのかムネタケがヒステリックに大声を上げる。 「もう! それならそうと早くしなさい! このままじゃ―――」 「連絡、取れました」 ムネタケの言葉をさえぎってルリが報告する。それを聞いてゴートは先を促した。 「アイツはなんと?」 「はい。『既に着いた。作戦は聞いたから囮をする。早く発進しろ』以上です」 それを聞いて、皆は一様にほっとした様子を見せた。 少なくとも、すぐに死んでしまうような事態にはなりそうにない、と思ったからである。プロのパイロットが着いたことでようやく心の安定を取ることが出来たようだ。 まぁ、彼は実際にはプロではなくあえて言うならモグリとなるのだろうが。 そんな少し緩んだ空気が漂う中、ムネタケは先ほどよりは落ち着いた口調で声を張り上げる。 「ちょっと! ホントに大丈夫なの!? こっちからも細かい指示をしたほうがいいんじゃないの!?」 その言葉にメグミなどは、意外と考えてるんですね、などと言っているが、彼の性格を知るルリにしてみればその真意はまるわかりである。 要するに、パイロットが来たことで反撃成功の確率が上がったことを確信したのだろう。それで、どうせなら自分の指示があったということを上に報告したいというわけだ。 しかしながら、囮役は一秒単位で気を使うデリケートな任務だ。つかず離れず、適度に攻撃を捌きながらも避けすぎてはいけない。当たりすぎても当然いけない。きわめて難しい作業なのだ。 それをいちいち命令するなど正気の沙汰ではない。それを判っていないのか、ムネタケの言葉は軍に所属したことがある者にとっては、馬鹿の一言に尽きるものだった。 現にルリだけでなく、フクベにゴート、ジュンでさえもわずかに顔をしかめている。ユリカは、しかめるというよりは不思議そうな顔をしていた。 「……囮に逐一の命令は必要ありません。パイロットの気を散らせます。それに任せておいて大丈夫です。あの人は火星で―――」 「いいから! とっととメインモニターに出しなさいよ!」 ルリはムネタケの命令に露骨に眉を寄せたが、それでも言われたとおりに外の様子をメインモニターに映し出す。 それは最初はなんでもない戦闘の光景だった。しかし、戦闘をしている一機の機動兵器。その外見に気がつくと、少しずつ皆の顔に驚愕が広がっていく。 あらかじめ知っていたルリと、大して興味のないラピス以外は、画面に釘付けになっていた。 そこに映る光景。そこにある存在。それが意味するところが判るなら、その反応は当然だろう。 静かにざわめき始めたブリッジの面々の様子を横目で見てから、ルリは自身も目の前のモニターへと目を向けた。 そこに映る存在を、しっかりと目に焼き付けて。
「――既に着いた。作戦は聞いたから、囮をする。早く発進しろ、とでも伝えてくれ」 ブラックサレナのコクピット内。ルリからの通信にアキトは静かな声で答えていた。外に目を向ければ、地上にはジョロの大群。連合軍の迎撃兵器は地上のジョロと空中のバッタに手も足も出ず、確実に数を減らしていた。 その様子を見つめながらの受け答えに、気を害するでもなくルリは頷いた。 『はい、わかりました……アキトさん』 「なんだい?」 『お気をつけて』 「ふっ……ああ」 小さな笑みと承諾の頷きを最後に、ウインドウが閉じられる。 それを見届けて、アキトは少々力を抜いて身体を背もたれに預けた。 ルリの背後に映ったナデシコのブリッジは、アキトに少なからぬ郷愁を抱かせた。これから再びあれに乗るのだと思うと、年甲斐もなく胸も高鳴る。 しかし、 ミスマル・ユリカ。 彼女もそこにいるのだろう。 この時間のユリカが愛しくないわけではない。結婚し、最期まで守ると決めた女性だったのだ。愛しいと思うに決まっている。 しかし、自分の愛したユリカは今の彼女ではない。今のユリカを愛することは絶対にないだろう、と言い切れる。なぜなら、アキトはユリカのことを本当に愛していたから。 『―――そっか……。それじゃ、仕方ないね…………あたし、アキトのこと大好きだもん』 悲しそうに、涙を浮かべて、それでも笑った彼女の顔を覚えている。勝手なエゴを押し通そうとした自分を責めるでもなく、ただ納得した彼女の顔を。 そんな彼女を裏切ることは出来ない。今のユリカを愛するということは、自分と共に過ごしたあのユリカを否定することになる。そんな気がする。 確かに、ユリカのことは吹っ切れてはいる。ジャンプ事故である以上、もうあのユリカに会うことは出来ないだろうし、既に別れた身だ。いまさらユリカに未練を残そうだなんて思っていない。 ただ、こんな自分を愛してくれた女性を、裏切ることなど決して出来ない。かつて、確かにいたその存在を、新しいユリカで上塗りするような真似は断じて出来ない。 ミスマル・ユリカというその存在。テンカワ・アキトが愛したのはあのユリカであって、今のユリカではない。 だから、ナデシコに乗っても大丈夫。今のユリカは、大切なナデシコの仲間で、たった一人の幼なじみ。そうアキトは思っている。 大切な人は、もういるから。 『マスター?』 サレナのウインドウが目の前に開かれ、ふと我に返る。 存外長い間、考えにふけっていたらしい。かすかに首を振って、思考をクリアにする。 IFSボールを握りなおした。 「――……ああ、大丈夫だ。いこうか、サレナ」 『イエス、マスター』 気持ちを切り替え、スラスターを全開に。小型相転移エンジンによってエネルギーの心配がなくなった以上、今のブラックサレナの問題は重火器がないことぐらいだ。 それもバッタとジョロ程度なら手加減したってお釣りがくる。それでも、さっき少女からもらった一言を思い出して、アキトは真剣に囮役へと従事する。 ハンドカノンを一発。一番先頭のジョロを破壊後、すぐさま転進して海側に前進。追ってくるジョロたちを、牽制するようにハンドカノンを発射し、それを繰り返す。 ちなみに前進といっても、サレナは地面すれすれを飛行している状態である。なぜなら、ブラックサレナはその構造上、歩くことが出来ないからだ。 足の裏側にそのままスラスターが付けられているブラックサレナは、空中を移動するしか移動手段がない。その分、滑らかな動きが可能になるのと大きな推力が得られるというメリットはあるが、基本的に陸戦が出来ない仕様なのであった。 そうしてホバリングの要領で機体を操りジョロを牽制していると、今度は空中からバッタが飛来する。飛び上がって再びカノンでバッタを叩く。バッタから撃たれるミサイルは全てディストーションフィールドにぶつかって、サレナに傷一つ付けることなく煙と散った。 「む……」 煙が晴れると、そこにはバッタとジョロが合体したような存在が多くいた。ジョロの持つマシンガンとバッタのミサイル。確かに合わせれば効果的だろうが、なんでまたいちいち合体なんぞするのだろうか。 「まぁ、木連はアレが聖典だからな」 エステバリスのような汎用性のある機体を造る技術がないというのもあるのかもしれないが、案外そういった面もありそうだとアキトは心の片隅で苦笑と共に思った。 そして次の瞬間にはそんな思考は隅に追いやり、目の前のバッタ+ジョロの大群を見据える。ぐっと身体に力を入れる。 「さぁ……念のために、ここで数を減らしておくか……!」 ディストーションフィールドをまとったまま、敵に突進。固まっていた一団の左半分を吹っ飛ばした。 そしてそのまま更に上空へ逃れて、段々と陸に降下しながら再び海に面したほうへと向かっていく。 「さて、そろそろかな?」 『ナイスタイミングです、アキトさん』 ルリの音声とともに、射線上から退避してください、という警告ウインドウが現れる。アキトは余裕を持って射線から退き、海中から浮上していたナデシコのブリッジへと静かに降り立った。 『目標、敵まとめてぜ〜んぶ! てぇー!』 どう考えても戦艦の艦長とは思えないユリカの号令に苦笑を浮かべて、発射されたグラビティーブラストの行方を見やる。 あれほど数多くいたバッタとジョロは今の一撃で全滅。見る限り、街のほうに被害はないようで、アキトは安心したように一息ついた。 『バッタ、ジョロとも残存ゼロ。地上軍の被害は甚大ですが、戦死者ゼロ』 聞こえてくるルリの報告の声に、ブリッジの沸きあがるような歓声が重なる。嬉しげに、楽しげに騒ぐ声に懐かしさを感じながら、アキトはブリッジへと通信をつないだ。 すぐにわかることだが、一応サウンドオンリーに設定して。 「ルリちゃん」 『はい、なんですか?』 「着艦の許可を」 『はい。と、いうことです艦長。着艦の許可を頂けますか?』 輝くような笑顔から一転、ユリカは困惑したような表情を浮かべて、 『え、あ、はい。……どうぞ』 と答えた。 「ああ、ありがとう艦長」 一言だけ返答して、アキトはブラックサレナをブリッジから浮かせる。そして、ゆっくりと動かしてブリッジの真ん前を通り、格納庫へと入っていく。 その中で、アキトは一人独白する。 「さて、いよいよ始まるな。時代の改変が……」 驚きの表情でブラックサレナを見上げる整備員たちをコクピットから眺めて、アキトは口元をわずかに歪ませる。 改めて決意するように呟いた言葉は、彼の相棒のAIだけが聞いていた。 その少し前。 短い言葉の後にブリッジの目の前を通った漆黒の機体を見たクルーたちは、民間も軍人も関係なく目を見開いてその機体を注視していた。 なぜなら、その機体の容貌がよく聞き知ったものであったから。 ――全身、染め上げたような漆黒。黒い翼と黒い尻尾。悪魔のごとき風体の宇宙に溶けるような黒い機動兵器。 神に見捨てられた星から、天使に代わって人々を救ったとされる英雄の姿。 「……"Full Black Fallen-Angel"……」 "漆黒の堕天使"と呼ばれる、禍々しくも美しい漆黒の全貌に、ただただブリッジは声を失うばかりだった。 |