薄暗い空間。

 周囲は鈍い色合いの金属類で囲まれており、光源がないこともあってかその雰囲気はどこか有機的なものを忌避しているかのような印象すら受ける。

 そこに現れるひとつの光。

 わずかな煌きはボース粒子と呼ばれる素粒子のもの。そしてその光が消えたかと思うと、先ほどまで何も無かったそこには、この闇色の空間にも決して溶けない漆黒を纏った人型兵器が存在していた。

 高さは十メートルはあるだろうか。地球産の機動兵器だとするならいささか大きく、木星のものと考えると小さすぎる。

 それはまるで最初からそこにあったかのように、大きな存在感を感じさせた。

 場所も、時間も無視して目的地まで移動する魔法のようなその現象。

 人はそれを、『ボソンジャンプ』と呼ぶ。

 そのボソンジャンプによってこの場に現れた機体のコクピットがゆっくりと開く。その中からこれまた全身を黒で統一した男が身を乗り出し、軽く機体を蹴って地面へと降りた。

 ビルの二階ほどもある高さから飛び降りながら、男は意に介することもなく、自然な様子で立ち上がった。


「………………」


 男は無言のままでゆっくりと歩き出す。

 それなりに広大な空間に男が歩く靴音だけが反響して響き渡った。

 十秒ほど鳴り響いていたその音も、男がこの空間の中心とも言える場所に到達したことで唐突に止んだ。


「………………」


 目の前には立方体の大きな物体が鎮座している。

 幾何学的な文様が表面に描かれてるその奇妙な物体。物言わぬ無機物でありながら、ソレはどこか威圧感のようなものを持っているように、厳格な雰囲気を男に感じさせた。


「……遺跡、か」


 ダークトーンの小さな声。

 かつて火星極冠にあった古代火星人の残した遺産。ボソンジャンプの演算ユニット。三年前の戦争で地球と木星の双方が狙い、求めていたもの。

 そして、三ヶ月前。これを手中に収めた"火星の後継者"によってクーデターが起こされ、鎮圧した後、連合軍統合軍の両者によって隠されたもの。

 男は、それを発見し、この遺跡を使い物にならなくするためにここを訪れていた。

 それと、もう一つ―――。


「来たか」


 男は後ろを振り返る。そこには、闇の中でさえなお輝いているかのような銀の髪に、金色の瞳をわずかに潤ませた一人の少女の姿。


「アキトさん……」


 少女の呼びかけに、男はここに来て初めて表情を緩めた。


「久しぶりだね、ルリちゃん……」


 そう、もう一つ。テンカワ・アキトはホシノ・ルリに会うためにここに来ていた。









機動戦艦ナデシコ
−Alteration of A−


プロローグ

「漆黒と瑠璃の『始まり』」












『遺跡を見つけた。君に話がある。そこで話をしよう』



 これ以上ないほどに短文のメールだった。

 本当ならこんなメールは削除してしまうのが普通なのだが、ルリはそんなことはしなかった。いや、出来なかったと言うべきだろう。

 なぜなら、最初の単語が『遺跡』である。ボソンジャンプのブラックボックス。あの遺跡のことだとすれば、これは現時点で最高の超機密事項に相当する。

 ルリの立場――連合宇宙軍中佐としては見逃せるものではなかった。

 それだけでもルリは動いただろうが、そのメールの中のとある箇所。そこを認めてから、ルリは常にないほどの必死さでその場所に向かっていた。

 ナデシコBのブリッジで、ルリは今までにないもどかしさと共に艦長席に座っている。

 自分がA級ジャンパーでないことを悔しくも思う。

 もしルリがそうであったなら、今頃迷わずCCを握り締めていただろう。

 それほどまでに今のルリには余裕というものがなかった。

 鬼気迫る、という表現がまさにふさわしいルリに不安を覚えたのか、副官であるタカスギ・サブロウタが警告交じりに声をかける。


「艦長。今からそんなに気張ってもどうにもなりませんよ。ここはいざというときのために、余裕を持っておかないと」


 その言葉に、はっとして、ルリは小さく深呼吸をする。

 少し落ち着いたのか、軽く目を閉じて艦長席の背もたれに背を預けた。


「……すみません、サブロウタさん」


 ルリの自責を含めた謝罪にサブロウタは、にっと人の好い笑みを浮かべた。


「いえいえ、艦長の補佐をするのが副官の役目ですから」


 あくまでも軽く言うサブロウタに、ルリは相好を崩してわずかに微笑んだ。

 そして背をイスに預けたままで、すっと視線を上へと向ける。

 そこには、暗い闇の中で無数に浮かぶ星々の輝きがあった。

 さっき読んだメールを思い出す。あのメール。内容もさることながら、ルリの興味を一番引いたのは違うところ。たったひとつの、ある項目。


「アキト、さん……」



 差出人『A・T』。



その項目が、今のルリの行動の全てだった。








                                  ■










 ―――そして、現在。


 指定された場所へと辿り着いたルリはナデシコBを外に待機させて単独で遺跡の場所まで来ていた。

 一人で行くと言った時に、彼女の弟分ともいえる少年がひどく騒いだが、彼女の気持ちを汲んだサブロウタによって黙り込まされた。

 そうして、彼女は今、この場所で彼と対峙していた。

 対してアキトのほうも、ブラックサレナごと来ているものの、母艦であるユーチャリスは外で待機させている。

 ラピスがわずかに駄々をこねたが、そこは何とか納得してもらった。不承不承という感はいなめなかったが。

 きっとこの空間の外ではナデシコBとユーチャリスが微妙な緊張感を伴って停泊しているだろう。

 連合軍と、テロリスト。

 本来なら疑いようもなく敵同士の間柄なのだから。


「三ヶ月……か。火星の後継者の残党も既にその多くが捕らえられた」


「……はい。少なくとも大きな集団行動が出来るほどの人数はもう残っていません。首謀者達は現在連合政府によって裁判にかけられています」


 久しぶりに再会した関係とは思えないほどに、互いの一言目は感動も色気もなかった。

 事務的に過ぎるその言葉。しかし、確認のためにはどうしても必要な段階だった。

 アキトにとっては、自分の人生を大きく変えた忌々しい出来事へのけじめのため。

 ルリにとっては……一つの願いを聞き入れてもらうため。


「……アキトさん。帰ってきては、くれませんか?」


 火星の後継者の件は、既に終息しつつある。だから、帰ってきてはくれないか、という。

 アキトとユリカと、自分と。かつての優しく楽しい家族の記憶。

 あの三人で、もう一度。という捨てがたい……捨ててはならない絆のために。

 しかし、ルリのその願いにアキトは静かに首を振った。


「ダメだ。俺は帰るつもりはない」


 それを聞いて、ルリは一気に冷静さを失う。

 それは、この機を逃したらもう会えないかもしれないという、焦燥感も手伝っていた。


「どうしてですか! ナデシコのみんなも、ユリカさんも……私も待ってます! それなのに、どうしてアキトさんは―――」


「違うんだ」


 はっきりとした口調でアキトはルリの言葉を止めた。

 あまりに言い切るその声音に、ルリは、え、とだけ呟いて口を閉ざした。


「違うんだ、ルリちゃん。みんな、待ってくれている。それは知っている。だけど、戻るわけにはいかない」


 決然とした断定だった。

 ルリは反論したい気持ちでいっぱいだったが、わずかに一言だけ、言葉をつむいだ。


「……どうして、ですか」


 それに、アキトはおもむろに顔のバイザーに手をかけた。


「俺の身体。やつらに弄り回されたのは何も頭の中だけじゃない。身体もそうだ。……そのせいで、俺の寿命はもう二ヶ月ほどしか残っていない」


 今度こそルリは言葉を失った。

 小さく開かれたままの口は閉じられず、金色の瞳は最大限の驚愕で見開かれている。

 アキトの言葉を段々と理解していくにつれ、ルリはこれ以上ない恐怖と悲しみに支配されていった。

 歯はかみ合わずにカチカチと鳴り、瞳もじわりとにじんできていた。


「……う、そ……です」


 ようやく出せたのはたったの一言。

 嘘だと言ってほしい。今の話は冗談だ、とそう言ってほしいがために出てきた言葉。

 確認の言葉ではない。これは、ルリにとって今なによりも叶えてほしい願いの言葉。

 しかし、アキトはそんな願いの前に、一言の現実を突きつける。


「嘘じゃない」


 それを聞いて、ルリの瞳からついに涙がこぼれる。


「本当のことだ、ルリちゃん」


 これが現実だと教えるように。

 アキトはルリへと言葉を投げた。

 確認するかのように本当のことだと告げられ、ルリはその場にへたり込んだ。

 小さな嗚咽の音が空虚な空間に響く。

 兄だったし、父だったし、家族だった。そして何より、大好きだった。

 その人が、死んでしまう。あと二ヶ月という短い時間で。

 二度も、味わうことになる家族の死。自分にとって、誰よりも大好きな人の死を再び味わえというのだろうか。

 想像も出来なかった。したくもなかった。

 わずかに考えるだけで心臓が凍り付いてしまいそうなのに。

 また、いなくなってしまう。今度こそ、永遠に。

 理解したら、どうしようもなかった。泣くことしか出来ない。

 ルリはそれでも嗚咽を漏らすまいと唇をぎゅっと噛んだ。

 それでもなお漏れ聞こえる小さな泣き声に、アキトは背を向けた。そして、遺跡と向き合う形のまま、再び口を開く。


「……先に、ユリカには伝えた。つい先ほどのことだ」


 はっとして、ルリは顔を上げる。

 涙でにじんだ視界に映るのは、黒い背中だけだった。


「アイツは、一言……そっか、とだけ呟いて、仕方ないね、って言っていたよ。泣き笑いみたいな表情でな」


「………………」


 ルリからはアキトの表情を伺い知ることは出来ない。

 ただ、泣いているのだろうか、とだけ思った。涙を流してはいないかもしれないけれど。

 最愛の妻と別れねばならず、自身の寿命もあとわずか。常人ならば周りに当り散らしてもしょうがないような状況。

 しかし、アキトはそれをしない。なぜなら、そんな軽率な行動は周囲に迷惑をかけることになると思っているから。

 だから、アキトは自分の中だけで決めてしまう。

 目に見えなくても、アキトの心はきっと傷ついているに違いないのに。


「俺はユリカに指輪を返してきた。もう、必要ないものだから」


 その一言に、どれだけの想いが込められているのだろうか。ルリには判らなかった。


「……俺はこれから死んでいく。少しずつ立つことも、見ることも、話すことも出来なくなっていくだろう。だから、その前にこうして話がしたかった……」


 アキトはそれで話し終わったのか、沈黙が訪れた。


 彼女にとってもう一人の家族であるミスマル・ユリカ。いつも天真爛漫な彼女が、悲しみの中でアキトとの別れを決断したというのは、ルリにとってもひどく悲しいことだった。

 母というよりは姉のような明るい人。でも、ここぞという時を誰よりも知っていて、自分に嘘をつかない決断を下す強い人。

 ルリの憧れ。

 その人が決断した、アキトとの別れ。

 幼い頃から想っていて、ようやく二人は結ばれたというのに、その決断をしたのはきっと、お互いに今の自分達では幸せにはなれないと少なからず感じているからなのだろう。

 ユリカの明るさは太陽のように眩しい。そしてそれこそがミスマル・ユリカの本質なのだ。

 今のアキトにとって、その光はきっとつらすぎる。

 アキトの抱える闇は、自己へと向けられたもの。自分を決して許さないという悔恨と嫌悪の象徴。自分をそうして保っている今のアキトにとって、ユリカの光は強すぎるのだ。

 それを聡明な彼女は知っているから、きっとこの選択をしたのだろう。


 "私らしく"。


 それこそが常に彼女が目指していたあるべき姿。アキトが愛したユリカの姿。

 ユリカにとっての"私らしく"は、ただのミスマル・ユリカとして、明るく元気に自分を見失わないこと。ナデシコAでのユリカはまさにユリカが目指していた姿であり、そうして輝いているユリカにアキトは好意を寄せたのだ。

 しかし、ここで矛盾が生まれる。アキトが愛した明るいユリカ。しかし、今の自分の闇を理解するアキトは、共にいればユリカの光は損なわれるだろうことを知っている。もちろん、ユリカも。

 アキトが愛した自分でいるためには、アキトと別れなければならない。


 その決断に、ユリカはどんな想いを抱いたのだろう。ルリには知る由もない。


 ユリカはそう決断した。しかし……ルリは彼女とはまた違った結論を胸に抱いていた。


(わたし、は―――)


 アキトの闇を見て。知って。

 それでも、ルリはごく自然に今のアキトを受け入れていた。自分でも気づかないほどに、今のアキトもアキトであると無意識下で既に思っていた。


 いつだったか、ユリカと一緒にいる自分のことを『太陽と月のようだ』と評されたことを思い出した。


 そう、自分は月になりたいとルリは思った。


 闇の中でも、光を灯すもの。闇にある人に、導きの標を示すもの。

 そんな月になりたい。闇を抱えたアキトに、淡くとも、確実な光を灯したい、というルリの思慕のカタチ。


 泣いていた目に力が入る。

 そうして、自分の心に気づき、決断したルリの目にはもう新しい涙は浮かんでこなかった。


 黒い背中をはっきりとした視界で見つめる。


「アキトさん……」


 呼びかけに、その背中はぴくりと小さな反応を返した。

 そのことに勢いづいて言い募る。


「あと二ヶ月の命って、言いましたよね……」


 ユリカは別れの決断を下した。それは決して間違いではないし、ユリカにとって深い悲しみと葛藤を伴う苦しい答えだったことはわかっている。アキトを愛していたということに疑う余地なんてかけらもない。


 ただ、ルリの下した決断はまた違っていたということ。


 ユリカに申し訳ない気持ちが無いわけではない。だが、ここで伝えなければ、もう二度とその機会は無いと判っているから。だから、ルリはその想いを言葉に乗せる。



「それでも、いいですから。それでも……貴方の傍に、いさせてくれませんか?」


「っ!?」



 その言葉に、アキトは弾かれるように振り返った。

 力なくくず折れていた足に力を入れる。涙でぬれた瞳に意志を込める。その細く華奢な身体で、精一杯の力強さを自分全体で表現して。

 ルリは、立ち上がった。

 かつてないほどに決意が秘められた金色の瞳。その目に見据えられて、アキトは一瞬ためらうものの、それでも力の限り叫んだ。


「君は何を聞いていた! 俺はすぐに死ぬと言っただろう! 死人に君が付き合う必要はないし、同情なんて必要ないっ!」


 あらん限りの叫びだった。

 アキトにとってルリの進言は決して承諾してはいけないことだった。

 近しい人間が少しずつ死んでいく。それがどんな悲しみをもたらすのか。想像でしかなくとも、耐え難い苦痛を覚えることが出来る。

 そんな悲しみや苦しみを感じて欲しくないからこうして話をしているのだ。

 ルリの顔がさっきのように悲痛に歪むことすらアキトの心をひどく締め付けるのだ。それでも、今伝えたほうがあとで知るよりもマシだろうと判断してここにいるのに。

 そんなアキトの考えを全て無駄にしてしまうルリの言葉は、絶対に承服できない。してはならないことなのだった。

 そんなアキトに、ルリは常のような抑揚のない……しかし決意に満ちた澄んだ声で応える。


「しっかり聞いていました。すぐに死ぬとはいっても、二ヶ月あります。それに、アキトさんはまだ生きています。最後に……」


 一つずつ、ルリは律儀にアキトの言葉を否定していく。


 アキトの表情も順を追って歪められていく。ルリの言葉は自分の気遣い(アキト自身はそう思っていないが)を全て無にする。怒りを感じていた。

 なぜ、わかってくれない。自分といることが不幸であると、どうして認めない。君が犠牲になる必要など、どこにもないのに。

 それは、彼にとっての優しさの表現だった。不器用で、自分勝手な優しさ。守るべき少女だと知っているから。大切な存在だと認めているから、共にいて欲しくないと願う奇妙な優しさ。

 妹で、家族で、大切な少女だから。だから、傷つかないで欲しい。その願いゆえに、わざわざ傷つくために近づいてくるルリのことを認めるわけにはいかなかった。

 しかし、そんな思いも、ルリの言葉で少しずつ崩れていく。



「――同情じゃ、ありません。アキトさんのことを好きだから、言っているんです」


「な……に……?」



 今度こそ、アキトは驚愕を顔に浮かべた。


「好きなんです、誰よりも。何よりも、アキトさんが大切だから――」


 ナデシコ時代から彼女のことを知っているアキトも、見たことがない力強さ。強引さ。

 アキトが来るなと言っても聞き入れない。傷つくと言っても構わないと言い切る。

 なぜなら、彼の傍にいることこそが自らの至上の幸福だと知っているから。それ以上の幸せはありえないと判っているから。


 そう、



「――愛しているから、貴方の傍にいたいんです」



 理由なんて、ただそれだけで事足りた。





 愕然と、バイザーの下で目を見開く。アキトにとっては文字通り衝撃の告白だった。

 ずっと妹のように思っていて、家族となった少女。その少女からの突然の告白。驚くなというほうが無理だった。

 しかし、周囲の人間にはバレバレともいえるほどに広まっていたというのに、本人がこれである。

 昔から鈍いといわれているのは、当然かもしれない。


 アキトはしかし再び表情を厳しくした。

 愛している、とルリは言った。

 だが、それだけで自分の意思を否定してやるつもりもない。余裕もなく、睨むようにアキトはルリを見つめ返した。


「……何を考えている、ルリちゃん。君がわざわざ傷つく必要はない。最後に傷つけるとわかっていて、どうして君の願いを聞くことが出来る!」


 だが怒鳴るようなその言葉にも、ルリは厳然とした面持ちで、言い放つ。


「アキトさんも判ってません。私にとっての幸せは、貴方と共にいることです。それ以上の幸福なんて、私にはないんです。……貴方に離れられるほうが、私にとっては不幸なことなんですよ?」


「………………!」


 二の句を告げないアキトにさらにルリは言い募る。


「最後には傷つく……かもしれません。でも、二ヶ月の間アキトさんと一緒にいられないほうが傷つきます。知らないところで死なれるほうが、よっぽど傷つきます。それは、私にとって何よりも恐ろしい、不幸なんです」


 だから、どうか。


「……一緒にいてください、アキトさん。愛しているんです、貴方を。私を一人にしないでください……」


 それは祈りのような響きを持って、アキトの心に突き刺さった。


「………………」


 この状況は、考えてもいなかった可能性だった。

 アキトにとって、これ以上ない想定外。

 ルリのことを女性として見たことがないか、と問われればアキトは否と答えるだろう。アキトも男である。全くないと言い切る自信はなかった。

 しかしそれでも、妹として大切に思っているつもりだったから、そんな気持ちは捨てられた。

 なによりアキトはユリカを愛していたから。だから、ルリは自分にとっての妹だったのだ、ずっと。

 けれど、現実はそんな幻想を粉々に打ち砕いた。

 ルリの想いは兄妹のものでも、親子のものでも決してなかった。

 一人の女性として、一人の男性に向ける好意。

 自分のことを、愛していると言ったのだから。


「………………」


 大切だから、傷つけたくないとアキトは願った。

 しかし、ルリは大切だから最期まで傍にいたい、と言った。

 さらには、傍にいられないことのほうが、自分にとって不幸であるとまで断言した。

 アキトにとって、それはまるで新しい思想に触れるかのような気分だった。

 傷つけたくないから、こうしているのに、なぜ傷つくことが判っていてこちらに来るのか。

 バイザーのおかげで悟られない瞳の動きで、ルリを一瞥する。そこには、儚くも美しい全身で力強くこちらを見つめる強い姿があった。


「―――……」


 その強い少女の姿からは、並々ならない決意が見て取れる。

 おそらく、傷つくことなどルリにとってはどうでもいいことなのだろう。傷つくことよりも、一緒にいられないことのほうが怖いから、一緒にいたい。簡単だった。

 しかも、理由が"愛しているから"で片付けてしまえるところが何とも凄い。それが少しおかしくて、アキトは内心で苦笑をもらす。

 ルリのことを好きかと聞かれれば、迷わず好きだと答える。愛しているか、と問われれば、アキトは愛していないではなく、判らないと答えるだろう。

 アキトにとってのルリは、ユリカとはまた違う、大切にしたい少女だった。

 だからこそのアキトのこれまでの行動だったのだが、ルリはそんな拒絶も乗り越えて、ついにはアキトの決意の上を行ってしまった。


 傷つけたくないと言って遠ざけるアキトと、そんなこと構わないと言って傍に来るルリ。結局、最期はそんな意地の張り合いに過ぎなかったのだろう。

 けれど、アキトはもう意地を張るのをやめにした。ルリの決意は何をしても覆らないだろうと思えるし、口にした言葉も事実なんだと判るから。


 むかし、ピースランドでの騎士の約束を思い出す。

 どうやら、彼女は守られるだけのお姫様は嫌らしい。騎士の傍で助け合う妖精。それこそが、ルリの立ち位置なのだろう。


 だったら、妖精と騎士は共にいて支えあわなければいけないのだろうか。柄にもなくそんなことを考えて、アキトはわずかに唇をゆがめた。


 結局、アキトにとってのルリは手放したくない大切な存在だったのだ。

 ルリの言葉を聞いて、アキトはそれを自覚した。そして、ルリのことを深く想う自分の心を信じることにした。

 俺といても、ルリちゃんは不幸にならない。幸せでいてくれる。ルリちゃんはそう言ったのだ。だったら、自分がそれを信じないでどうするのだ、と。


 だから、アキトは声を和らげて首を縦に振る。


「……わかったよ、ルリちゃん」


「え……?」


 肯定の意を示すアキトの言葉に、言い出したルリ自身が信じられないらしく、その表情はさっきまでのアキトと同じく驚きに彩られていた。

 その姿に、今度こそアキトは苦笑した。


「君の告白を受け入れるってわけじゃないけど、それでもいいなら。――ルリちゃん、一緒に来るかい?」


 その問いかけはまさしく愚問だった。

 ルリは驚きから一転、その顔一面に何よりも美しい渾身の微笑みを浮かべて、


「はいっ!」


 心の底からの喜びの声をもって、アキトと共に在ると応えた。

 嬉しかった。

 愛しているわけではないだろう。それでも、自分の気持ちを受け入れて、自分の言葉を信じてくれたことが。自分の想いを認めてくれたことが。

 たまらなく嬉しくて、ルリは人生で一番だと自分でも言えるほどに、幸せな笑みを浮かべた。



 それにアキトは、ふっと柔らかな表情を浮かべて、おもむろにくるりとルリに背を向ける格好を取った。

 そうして必然的に目の前には、あの全ての原因ともいえる、遺跡の演算ユニットがくることになる。


「……思えば、これがあるからいけなかったのかもしれないな」


 ボソンジャンプ。

 時を越えることすら可能とする、人類には過ぎた遺産。

 これのせいで、いったいどれだけの人間が命を落とすことになったのか。

 わずかに首を動かして後ろを見やる。

 そこには誰よりも大切な少女。そして、その後ろには自分の罪の象徴ともいえる半身――ブラックサレナ。

 全ての原因は此処に……遺跡に帰結するのかもしれない。


「……こんなものは、処分するに限る。いや、そうしなければならない」


 再びの災いを防ぐために。

 ボソンジャンプなんてなくても、人は生きていけるのだから。

 そう決意を固めて、アキトはすっと右手を上げて遺跡へと触れた。



 瞬間―――、



「なっ!?」


「えっ!?」



 闇色の空間を一気に照らす、強烈な閃光が一帯を埋め尽くした。



「ば、バカな……! 遺跡が、起動しているのか!?」


 遺跡は現在、凍結している状態にある。にもかかわらずボソンジャンプが可能なのは、それが遺跡本体の起動に関わらず、常時発動している完全な独立機能だからだ。

 それなのに、なぜか遺跡はこうして起動している。完全なオーバーテクノロジーの固まりという危険極まりないこの遺跡が。


「ちっ、――ルリちゃん!」

「はい!」


 アキトは一足でルリのもとへと駆け寄り、ルリを抱き上げてブラックサレナのほうへと向かった。

 開きっ放しだったコクピットに二人ごと乗り込み、ハッチを閉める。

 そしてジャンプによっての離脱を試みるが、なぜかジャンプ装置が作動しない。それを悟るや懐からCCを取り出すが、なぜかCCは鈍く輝きを失っていた。

 一応試すが、やはりジャンプすることが出来ない。


「くっ―――!」


「アキトさん、外部との連絡も取れません!」


 ルリがIFSでナデシコBに接触を図っているが、まったく手ごたえがない。まるで回線が無理やり切断されたようだった。

 アキトもラピスにリンクでの呼びかけを続けるが、反応は返ってこない。

 そこまでやって、二人はようやくとるべき手段がもう残されていないことに気がついた。


「くそっ! どうなってるんだ、一体!」


 怒りの表情そのままにアキトは毒づくが、現状はわずかなりと待つこともなく進行していく。


「!? い、遺跡からジャンプフィールドの発生を確認! 対象は……この空間の"遺跡を除く全て"です!」


「何だとッ!?」


 ブラックサレナはその制作目的から、ある程度独立したエネルギーでの運用を可能にしている。そのため、サレナの電子機器は今のところ問題なく機能している。

 それが判るからこそ、そのルリの言葉は実に信憑性があった。……受け入れがたい事実ではあったが。



「……フェルミオン=ボソン変換開始。……ランダムジャンプに、入ります……」


 力なく告げるルリの言葉が、空しくコクピットの中に消えていく。


 ランダムジャンプは、ボソンジャンプを行う上で最も憂慮すべき事故である。時間・場所ともにランダムで移動してしまうという最悪のボソンジャンプ。

 地球や火星に出ればいいが、太陽や外宇宙に飛び出してしまえば人間は生きていけない。さらに言えば、よしんば地球に出たとしても、それが太古の地球ならば空気成分・酸素濃度や環境の違いから、現代の人間が生きていくのは難しい。

 ほぼ100%という確率で死に至る。それが、ランダムジャンプという事故なのである。


「……どうやら、二ヶ月と待たずに贖う時が来たようだな……」


 席の背もたれに身を休ませ、アキトは吐き出すようにそう口にした。


「アキトさん……」


 力なく投げ出されたアキトの手を、その白い両の手で握り締めて、ルリは一身にアキトの顔を見つめる。

 それにアキトは微笑んで、見つめ返した。


「そうだね……ルリちゃん、予定とはちょっと違っちゃったけど、俺と一緒に来てくれるかな?」


 そんな不器用なアキトの問いかけに、ルリは満面の笑みで応えて。


「もちろんです、アキトさん。最期まで、私は貴方と一緒にいます」


 答えた言葉に満足して、アキトは最期の時を迎えるために静かに目を閉じた。






 わずかなボース粒子だけを残して、漆黒の機動兵器は虚空に溶けて消えた。

 あとに残されたのは、再び闇に閉ざされた空間と、その中心にただ静かに鎮座する遺跡だけであった。