きょう×なの





●その1




――A Past Day




 それは本当に唐突の出来事だった。


 突然目の前の空間がぱっくりと開いたかと思うと、その切れ目に自分の体は吸い込まれるように投げ出されてしまったのだ。

 声を上げる間もなく意識がなくなり、目を覚ましてみれば小高い丘の草の上。星空を見上げていることから寝転んでいるらしいと自分の状態を悟った少女は、六歳という年齢に見合う小さい体の半身だけを起こしてあたりを見回した。

 見下ろす町は家の明かりで煌いていて、綺麗だった。それ以外には、すぐ近くにお墓が見えることから霊園があるらしいことぐらいしかわからない。

 何となく見覚えがある気もするが、夜のせいかよくわからない。


 ここはどこなんだろう?


 ようやく湧いて来たその疑問に、軽く身体がぶるりと震えた。


 見も知らない土地なのだろうか。だとすれば、自分はこれからどうすればいい。


 漠然とした恐怖と不安に押しつぶされそうになった時。がさ、と草の音がして反射的にそちらを振り向く。

 と、そこには自分よりは一つ二つは年上であろう少年が、こちらを見ていた。


「……こんな時間にどうしたんですか?」


 それはこちらの台詞だ、と心のどこかで思いつつも、その少年の登場にほっと息をついた。

 自分だけではないという安心感を得た。

 それは、本当に嬉しく、心からほっとできるものだったのだ。

「えっと……、わたしにもちょっと……」

「はあ……そうですか」

 自分よりも年上であろう少年が、なぜか自分に敬語で話すことに違和感を持つ。が、まあそういう子もいるだろうと納得した。

 仲良くなればそんな気遣いもなくなるだろうとも思った。


 まあ、とりあえず。

 自分がするべきことは、仲良くなるための第一歩を踏み出すことだろうと幼い少女は考えた。

 そう、まずは自己紹介。

 そこから友達になろう。

 なのはは目の前の少年の手を握って、笑顔を浮かべた。


「わたし、なのは。高町なのはっていうの。あなたは?」


「俺は……――」




























 SIDE−Nanoha




 がばり、となのははベッドから身を起こした。


 懐かしい夢を見た。


 九年前の、忘れられない大事な思い出。家族の誰にも言っていない大切な記憶。

 それが信じられない内容のものであるから、という理由もあるが、それ以上になのはは話したくなかったから家族には話していなかった。

 何となく、である。まあ強いて言えば、自分だけの思い出にしておきたかったといったところだ。

 まあ、いま話せば「へぇ、そんなことがあったんだー」なんて納得してくれそうな気もするが。

 んー、となのはは半身を起した状態のままで欠伸まじりに伸びをした。

 久しぶりにいい夢を見た。

 彼が出てくるなら、それはなのはの中で問答無用にいい夢に指定されるのだった。

「なのはー。今日はいつもよりちょっと遅いわよー。起きてるー?」

「あ、はーい!」

 母からの呼び声に返事を返し、目覚まし代わりにしている携帯の時計を見ると、ぎょっとなのはは目を見開いた。

 確かに、いつもより遅い。目覚ましもスヌーズ機能に入っている。

 と、その瞬間に携帯が再び鳴り始め、なのはは驚いて思わず携帯をとり落とした。

 が、すぐに拾い上げて音を止める。

 ほっとなのはは一息ついた。

「に、にゃはは……。びっくりした……」

 冷や汗を流しながら言うなのはの顔は、ちょっと引きつっていた。

「なーのーはー?」

「あ、はーい! すぐ行きまーす!」

 再びかけられた声に慌ててそう返して、着なれた学校の制服に手を通す。リボンで頭の片側にしっぽを作ると、仕上げとばかりに机の上のものに手を伸ばす。

 九歳の頃からのパートナーで友達の、赤い宝石と。

 子供っぽい安物のリングに紐を通しただけの、幼いペンダントに。

「………………」

 顔をほころばせてそれを首にかけ、一応校則違反なので見つからないように制服の中に隠す。

「よしっ!」

 いつものスタイルになったことを確認して、なのはは心なしか急いで部屋を出た。



















「おはよー、なのは!」

「おはよう、なのはちゃん」

「なのは、おはよう」

「おはようさん、なのはちゃん」

 いつも通りに教室の扉を開けて中に入ると、いつも通りの挨拶を友人たちがかけてくる。

 なのははそれに笑顔で答えた。

「うん。おはようアリサちゃん、すずかちゃん、フェイトちゃん、はやてちゃん」

 それから自分の机に近づき、鞄を置いて席に着く。

 するとそれを見計らったかのように四人が寄って来る。それがなのはたちの朝の習慣であった。

「なのは、相変わらず朝弱いの? いつもあんたが最後じゃない」

 訊くのは活発な少女、アリサ・バニングスである。

 確かに彼女の言うとおり、なのははいつもこの五人の中では最後に登校してくる。小さいころから知っている間柄だけに、そういったことには目ざとく気づくのであった。

 そんなアリサの言になのはは苦笑した。

「今はそんなでもないと思うんだけど……。管理局のほうの仕事もあるから、寝坊だけは本当にすぐに矯正したしね」

「ああ、確かに苦労しとったなぁ〜」

「ホントにね」

 昔を懐かしむようにしみじみと言うのは、はやてとフェイトの二人。

 なのはと同じく管理局で働き、三人同士で部屋をとって休むことも多い彼女らは当時のなのはの苦労をよく覚えているのだった。

 まぁ、しかしなのはにしてみればそれはかなり恥ずかしい思い出らしく。

「ち、ちょっと二人とも。そんな微笑ましいものを見るような目で見ないでくれる?」

 到底ふたりの生暖かい視線に耐えられるものではなかったようだ。

「くすくす……。でも確かに最近は寝坊はなくなったよね、なのはちゃん」

 上品に笑いながら言うすずかに、なのはは降参とばかりにため息をついた。

 どうにもみんなは朝に弱い自分をいじりたいらしい、と半ばあきらめ気味でやけくそっぽいため息であった。

 そんななのはの様子に、彼女らは満足したのか今度は少々違う質問を投げかける。

「でも、今日はそれでもちょっと遅かったよね。何かあった?」

 フェイトの何気ない問いかけに、なのはは後日にあれは本当に不覚だったと自省することになる反応を返してしまう。

 フェイトの言葉で朝の夢を思い出したなのはは、ちょっと頬を染めてはにかみ、制服の中のあるものを制服の上から手を当てたのだ。

 その胸に手を当て、赤い頬で小さく微笑んだ姿は……四人の乙女の直感にニュータイプのごとく閃きをもたらした。


「男か!!」

「ふぇ!?」


 大声で叫んだアリサになのはは間の抜けた声でもって答えた。

 ちなみにそのアリサの発言を聞いて、びくっと反応したあとにそわそわと身体を揺らす男子多数。

 いまさらだが、なのはたち五人は皆かなり可愛い。よって、当然男子学生から多大な人気を誇っているのだった。

 はあはあ、照れた姿萌え……。

 そう呟いた少年もいたが、とりあえず彼は周りの友人たちによってフルボッコにされた。

「あ、アリサ! 声が大きい!」

「そ、そや! いくら何でも公開尋問はいただけんて!」

 放っておくとそのままなのはを問い詰めだしそうなアリサを察して、フェイトとはやてがすかさず止めに入る。

 さすがに公衆の面前で色恋について言及されるのは酷だと思ったからだ。

 ちなみになのははその間顔を真っ赤にして固まっていた。

 すずかがなのはの気を取り戻そうと奮闘しているが、今のところその努力が実を結んではいないようだ。


 と、そうこうしているうちに朝のHRの開始を告げるチャイムが響き渡る。

 それを聞いてアリサはようやく力のこもった身体から力を抜く。

 フェイトもはやてもほっとした面持ちでアリサから手を離した。

 しかし、アリサはそんなことで諦めるような女の子ではなかったのである。

「いい、なのは! 昼休みにしっっかりと! 聞くからね!」

 いちいち言葉を切って言い切ったアリサはそのまま、ずしずしと自身の席まで戻っていく。

 そしてフェイトもはやてもやはり好奇心が勝ったのか、もう止める気はないようだった。

 すずかともどもそれぞれの席に戻っていく。

 あとにはいまだに赤みの残る頬をしたなのはが残されるだけだった。

「おーい、出席とるぞー」

 教師の声がHRの開始を告げるが、なのはの心境はもうHRなど完全に思考の彼方に追いやっていた。

 そして、はっと気づく。

(わ、わたし……ひょっとしてピンチ……?)

 それに思い至ると、なのはは今度は顔を青くさせて固まるのであった。



















 そしていくつかの授業を終えた昼休み。

 チャイムが鳴るやいなやファイトとはやてに両脇を抱えられたなのはは、ずるずると引きずられながら教室を後にすることになった。

 ちなみにアリサは先導していてすずかは最後尾で苦笑を浮かべてついてきている。

 売られていく子牛の気持ちがわかりました、とはなのはの談である。

 そうして連れてこられたのは、すっかり春めいてぽかぽかとした陽気が暖かい屋上。階段はもちろん自力で登りました。逃げようとしたが、フェイトに一瞬で捕まったから早々に諦めたのである。

 基本的に運動が苦手ななのはが、速さが売りのフェイトに敵うわけがないのである。

 とりあえず五人で円を作るように座って、お弁当を広げて、いただきますと言ったところで、アリサがびしっと箸をなのはに向けた。

 ……すぐにすずかに注意されて下ろしたが。仕切り直しとばかりに、アリサはびしっと指を突きつけた。

「さあ! 吐いてもらいましょうか!」

 にやり、と心底意地の悪い笑みを浮かべるアリサは正しく邪悪だった。

「は、吐くって……なんのこと?」

 とぼけてみせるなのはに、アリサはさらにヒートアップして声を大にする。

「決まってるでしょ! 男よ男! 男、できたんでしょ?」

「……できたっていうより、いるんじゃない?」

「そやなー。昔っから、たまにどっか遠く見てる時あったしな、なのはちゃん。今日みたいにあからさまやなかったけど」

「き、気付いてたの!?」

 フェイトとはやての言葉に、なのはは驚いて思わず疑問を口にした。

 そんななのはの様子を、二人は目を見合せて笑う。

「だって……」

「なあ?」

 その態度がバレバレだったと物語っていて、なのはは顔から火が出る思いだった。

「だあぁぁかぁらー! 結局どうなの? 誰かと付き合ってるの? そうじゃないの!?」

 耐えかねたのか爆発したように叫ぶアリサに、すずかはこらえ性がないなぁ、とちょっと呆れた視線を向けた。

 しかしすずか自身も気になるのか、わずかに身を乗り出す。

「それで、なのはちゃん。お付き合いしている人はいるの?」

「そやそや。いい加減あたしらも気になってるんやから。どうなん?」

「わたしも、気になるな。ユーノとかじゃないみたいだし……」


 さあ吐け。


 女三人そろえば姦しいというが、四人そろえば恐ろしいものだとなのはは実感した。

 顔を赤くして、あーうーと声にもならない呻きをこぼして、頬を掻いて目を泳がせるなのはの姿はとても管理局のエースと呼ばれる存在には見えなかった。

 が、ついに決心がついたのか自分を落ち着かせるようにひとつ息をついた後に、しょうがないなぁ、と一言だけ不平を洩らした。

「……詳しいことは言わないよ。それでもいい?」

「えぇー」

 大いに納得のいかない様子のアリサに、ぎろりと殺気のこもった眼で睨むなのは。

 次の瞬間アリサはこくこくと人形のように首を縦に振った。

(あれは怖いよ……)

(さすが管理局の白いあく――)

(はやてちゃん、なに?)

 フェイトとはやての念話に目ざとく気がついて介入してきたなのはに、びくっと震え上がる二人。

(な、なんでもないで〜)

(う、うん)

(……そう。ならいいんだ)

 ぷつりとなのはの介入が途絶える。

 ほっと息をつく二人だが、最後に一言だけ念話で互いに伝えあった。

(やっぱり……)

(怖いわな……)

 そしてこれ以上続けるのはもっと怖いので、早々に念話は打ち切ってなのはの話を聞く態勢に入る。

 すずかはもとより話し出すのを持っており、アリサもなのはの話を聞く用意を整えている。

 膝の上に広げたお弁当は一切無視して。

 とりあえずなのはは咀嚼していた卵焼きを飲み込む。それからゆっくりと口を開いた。

「まず言っておくけど、付き合ってはいないよ。それどころか、会ってもいない」

「え、ネットとかそういうん?」

 会っていないという発言からだろうはやての言葉に、なのはは勘違いさせたらしいことに気がついて言いなおした。

「違うよ。小さい頃に一度だけ会っただけなの。それ以来会っていないってこと」

「……そういえば、小学校の頃からたまにぼーっとしてた時あったわね」

「わたしやアリサちゃんと仲良くなった時にはもうそうだったかな……?」

「わたしが彼と会ったのは、六歳になって少しした頃。だから、アリサちゃんたちと友達になって一年たつかどうかって頃かな」

「結構、昔なんだね」

 フェイトの言葉に、なのははそうだねと笑って返す。

 そうしてなのはは丁寧にウインナーをつまんで口に入れる。と、アリサが何やら唸っているのが見えた。

「どうしたん、アリサちゃん」

 はやてが問いかけると、アリサは唸りながら返事を返す。

「うーん……いや、確かその頃に何かあったような…………っあ!」

 思い出した、とばかりにアリサは手をたたいた。

「なのはの一日失踪事件!」

「あ、そんなこともあったね!」

 アリサの言葉にすずかも思い出したのか、ぱちんと両の手をたたいた。

「なにそれ、なんなん?」

「なのはの一日失踪事件?」

 対してはやてとフェイトは頭上にクエスチョンマークを浮かばせている。

「そっか。二人はまだいなかったもんね」

 アリサがそういえばといった様子で言うと、それに続いてすずかが二人に説明する。

「小学一年生の最後のほうなんだけどね。突然なのはちゃんがいなくなったの。学校からは帰ったのに、家にいない。町を探してもいない。私やアリサちゃんも探したけど、どこにもいなかったの。
 けど、次の日の夜にいきなりなのはちゃんが家に帰ってきたらしいの。今までどこにいたんだ、って聞いても答えてくれなくて……どれだけ聞いても絶対に教えてくれなかったから、結局そのままになったんだよね?」

 すずかの説明に、アリサは腕を組んでうんうんと頷いている。

 フェイトとはやては、目を丸くしていた。

「そんなことがあったんだ……」

「はー、なんやなのはちゃんも結構波瀾万丈な人生やね」

 そのはやての言い方に、なのははごはんを口に含んだまま苦笑した。

 確かに言われてみれば、わりと波乱万丈な人生な気がする。まあ、魔法なんてものに関わっている時点でこの世界では普通の人生とは言えないだろう。

 そしてしっかりと口の中のものを嚥下してから、口を開く。

「ん……まあ、お話はその時のことなんだけどね。わたしはその時、ある男の子と会ったの。突然の出来事で不安になってたわたしを慰めて、安心させるようにしてくれた。
 それから、ちょうどお祭りの日だったらしくて縁日に連れて行ってもらって。ずっと遊び回って、その子のお父さんに怒られて。でもすごくよくしてもらって……」

 その時の情景を思い返しているのか、なのははたまに見せる遠い目をする。

「それで、その一日の終わりの時。お別れの時にわたしはリボンをあげて、その男の子はこれをくれたの」

 お箸をおいて、制服の胸元を少し緩めて手を差し入れる。

 そして取り出したのは、紐に通された子供用の小さなリング。

 それを愛おしそうに手の平に乗せてなのはは続けた。

「『父さんに聞いた話だと、指輪を女の子に渡すのは親友の証らしい。だから、これを渡す。また会えるように』って言って。今思えば、その子お父さんに騙されてたんだね」

 くすくすと可笑しそうに笑う。

 フェイトたちもその微笑ましさに思わず笑みがこぼれた。

 女の子に指輪を渡すということは、恋人とかプロポーズだとか、とにかく特別な関係になるということだ。ろくなことを教えない父親だとは思うが、それをそのまま信じてしまったその男の子の純粋さが微笑ましかった。

「それで、その子の名前はなんていうの?」

 アリサの質問に、なのはは首を横に振ることで答えた。

「へ? ひょっとして知らないとか?」

「ううん。知ってるけど……ごめんね、言えないの」

「どうして?」

 今度はすずかからの疑問の声だった。

「言えないから。そうとしか言えない。彼の名前は、ちょっと特別な意味があるから」

 特別な意味? と全員が首をかしげたが、なのはにとって大事なことらしいので無理にでも聞きだそうとは思わない。

 四人の考えはそれで一致していた。

 そんな皆の優しさに微笑みながら、なのはは話を続ける。

「……男の子からもらう指輪の意味。今でこそその意味がわかるけど、その時はわたしもその子も本当にそういう意味で取ってたからね。すごく大事にして、いつでも持ってられるようにペンダントにしたんだ」

「へぇ〜……って、なのは。指輪の意味がわかるってことはじゃあ……」

「うん。まあ、そういうことかな」

 今でこそ指輪の意味がわかる。それでもなお身につけ続けているということは、なのはがその男の子に特別な思いを抱いているということに違いなかった。

 かすかに照れながらもなんだか幸せそうななのはの笑顔に、アリサやはやてたちは毒気を抜かれたように脱力した。

「……なんや、かなわんなぁなのはちゃんには」

「うん。すごくいいお話だった。なのはは、ずっとその子を思い続けてるんだね」

「だからアリサちゃん、からかっちゃダメだよ」

「う……わ、わかってるわよ!」

 それぞれがそれぞれの反応を返して、わいわいと騒いでいる中、当のなのははゆっくりとお弁当箱をしまい、両の手の平を胸の高さで合わせる。

 その仕草に四人がふと気を取られて、なぜか注目してしまう。

 そして――、


「ごちそうさまでした」


 キーンコーンカーンコーン。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 手の平を合わせたままのなのは。

 唖然となった四人。

 止まった時間。

 しかし、実際に時間が止まるわけなどなく。


 再び、時は動き出す。


「「「「えええええええええええええ――――ッ!?」」」」


「ちょ、まだ食べ終わってへんねんけど!?」

「ああ、わ、わたしも全然――!」

「な、なのはちゃんのお話に夢中になっちゃって……」

「ああもう、時間ないじゃないのよぉ――ッ!」

 途端に慌てだす友人たちに小さく微笑みを洩らして、なのははさっさと食べ終わったお弁当箱を持って立ち上がる。

 そして屋上の出入り口に向かって歩き出した後ろ姿に、様々な声が投げかけられる。

「ま、待ってぇな、なのはちゃん! 教えてくれてもよかったやん!」

「お、お腹すいた……」

「うう、授業始まっちゃうよぉ」

「なーのーはぁー!」

 それぞれの性格を表すかのような声を背中で受けながら、なのはは制服の中から出されて胸元に光るリングを指でつまんだ。

 何度となく触れた、指になじむ感触がする。

 それを感じながら、懐かしいあの時の記憶をそっと思い返す。

 そして気づけば、彼の名前が口をついて出ていた。

 九年前のあの日、絶対に誰にも言わない。誰にも言えない、と誓った彼の名前が。



「今どうしてるのかなぁ、恭也くん……」










●その2




 SIDE−Kyoya



「夢、か……」

 のそりと布団から起きた恭也は、珍しくはっきりとしない思考のままに小さく呟いた。

 あれは確か、八歳……九歳のころだったかと今見た夢に思いを馳せる。





 まだ父と二人で日本中を回っていた頃。最後に訪れたここ海鳴市で、父である士郎は心から愛する女性と出会った。そして最終的には結婚することになるのだが、それは今は置いておこう。

その日は現在の母である桃子と、デートするんだ! と言って張り切って出て行った士郎に呆れながら、恭也は夜の散歩を楽しんでいた。

 すると突然、通りかかった霊園のほうから妙な気配が現れたのだ。怪しいということではなく、何もなかったところにいきなり現れたような気配だったから、妙なとつけたのだが。

 気になり、注意をはらいつつも近づいてみると、そこには半身を起こして呆然とした表情であたりを見回している小さな女の子がいた。

 あの子が気配の原因か……?

 そう思って観察を続けていると、呆然としたままだった表情が見る見るうちに曇っていき、ついには泣き出しそうな顔になっていった。

 それには恭也のほうが焦った。いくらなんでも目の前で泣かれるのを黙って見ていられない。それに、相手は自分よりもいくらか小さな女の子なのだ。まるでその子の兄になったかのような保護意欲も湧いてきて、無視することはできなかった。

 仕方ない、と判断して恭也は草むらから音をたてて姿を現した。

 それにびっくりした顔でこちらを凝視する女の子。

 ……とりあえず、こちらから話しかけてみるか。

 そう考えた恭也は、早速目の前の少女に声をかけた。

「……こんな時間にどうしたんですか?」

 話しかけられたことに悪ければ怯えるかもしれないと恭也は考えていたが、逆にその少女はほっとした表情を見せた。

 良くも悪くも、人を疑うということを知らない女の子なのかもしれない。

 そう思うが、恭也はそんな人間を嫌いではなかった。

「えっと……、わたしにもちょっと……」

「はあ……そうですか」

 やはりこの少女は現状を把握していないらしい。

 一目見た時から、明らかに今の状況に戸惑っているようだったから、その答えは予想できていた。

 とはいえ、だとすればなぜこんな時間にこんなところにいるのだろうか。

 誘拐、には見えない。家出ということもなさそうである。寝転んでいたことから病気なのかとも思ったが、見る限りはいたって健康そうだ。存外、症状が目には見えない類の病気なのかもしれないが。

 恭也が己の思考の中で唸っていると、その少女はにっこりと笑顔を浮かべて恭也の手をとった。

 その笑顔と仕草に、恭也は思わずどきりとした。

 今まで感じたことのない感情だった。


「わたし、なのは。高町なのはっていうの。あなたは?」


 これは自己紹介ということらしい。

 とりあえず恭也はうるさい心臓を無理やり押さえつけて、その声に答えた。


「俺は、恭也。不破恭也です。よろしく」


「うん! よろしく、恭也くん!」


 本当に嬉しそうに裏表のない笑みを浮かべるなのはに、恭也の心臓はやはりひときわ高く跳ねた。










(思えば、あれが俺の初恋だったのか……)

 その後縁日を回り、敬語もそのうちなくなってずっと遊び歩いた懐かしい記憶。

 別れ際に渡したリングの正しい意味を知った時には、父さんをボコボコにしてやるために真剣でもって斬りかかったっけ……。

 実に懐かしい記憶だ。

 結局士郎は倒せなかったが、士郎はその後桃子によって叱られていたので恭也の溜飲はいくらか下がったが。

 しかし、出会って別れるまで実質一日しかなく、しかもその後九年ものあいだ会ってもいないというのに、いまだにこれだけ鮮明に覚えていることに恭也は内心で驚いていた。

 もうあの時の少女の正体は気付いている。彼女はもうあの時には気がついていたんだろうが。

 恭也は妹が生まれた時に、その事実を知ったのだ。

「信じられんが……話に聞く、平行世界とやらなのか」


 高町なのは。


 その名前はまぎれもなく、その一年ほどあとに生まれた自らの妹の名前に他ならなかった。

 それにこの九年の間に成長したなのはの姿は、まさしくあの時の高町なのはの姿とそっくりだったのだ。

 なのはが当時のあの少女と同じ年である六歳になった時、まさかと思っていた恭也の予想は確信に変わったのだ。

 最初はタイムスリップかもしれないとも考えたが、六歳となったなのははその一年の間一日いなくなったりすることはなかったし、何か様子が変わったこともない。

 そのことからタイムスリップ説は却下したのだった。

「……九年か……。もうそんなに経つんだな」

 しみじみと呟いてみると、その過ぎた月日の分だけ思い出が蘇るから不思議なものだ。

 その長い記憶の中でも、決して色あせることなく残っているあの一日の思い出。

 いまだにこの胸にくすぶっている、忘れられない少女の姿。

 ……何てことはない。

 高町恭也は、いまだにあの日の高町なのはのことを引きずっているのだ。

 初めて恋をした、好きな女の子として。

「ガラではない、が……こればかりはな」

 ふっと自嘲気味に苦笑して、恭也は黒一色の服を着込んでいく。

 もう会うこともあるまい、という気はしていた。

 なにせ平行世界だ。そうぽんぽんと行き来できるはずもない。

 もし出来るとすれば、あの快活で真っ直ぐななのはだったら次の日にでも会いに来そうだ。しかし、もう九年もたっているのだ。来れないか……あるいはもう忘れてしまったのかもしれない。

「……それでも残るものはある、か」

 余計な装飾のない部屋の片隅にある小さな机の引き出しを、すっと開く。

 そして、大切に保管されている薄い桜色のリボンにそっと触れる。

「………………」

 しばらくそうしていたが、恭也はおもむろにそのリボンを取り出すと丁寧に畳む。

 そしてそれをポケットにしまうと、静かに障子を開いて家族の待つリビングへと足を向けた。

 なぜ、今日に限って身につけようと思ったのだろうか、恭也にはわからなかった。

 だが、恐らくはあの日の夢を見たからだろうと結論付けて、恭也はそのリボンをポケットの上から軽くなでるのだった。









 恭也がリビングに入ると、そこにはもう既に全員がそろって各々の席についている光景があった。

「おそいよー、恭ちゃん」

「めずらしいですな、お師匠がこんな遅れるなんて」

「確かに師匠にしては珍しいな」

「おはよう恭也。あんたの場合は、まあたまには寝坊するぐらいがちょうどいいのかしらね」

「おはよう、お兄ちゃん!」

 それぞれがそれぞれの言葉を恭也に投げかける。

 まあ確かに普段は歳に似合わず早起きな恭也にしては珍しいことと言える。だがしかし、今日は美由希にも事前に鍛錬を休む旨を伝えてあったし、問題ないだろうと恭也は思う。

「ほら、とりあえず早く座りなさい。それと、朝に言うことは?」

「……おはよう、母さん。みんなも」

「はい。よくできました〜」

 満面の笑みを浮かべて、桃子は食事前の音頭を取る。

「ではみんな揃ったことだし。手を合わせて〜」

「「「「いただきまーす」」」」

 言葉と同時に青い風と緑の風が食卓の上で吹き荒れる。

 かちーん、という甲高い音と共に二人のお箸がとあるおかずの上で見事にかち合った。

「……おい、これは俺のだぜ。どきなドン亀」

「……そっちこそや。これはうちが目を付けたもんや。遠慮せんかいお猿」

 んだと? やるんかい、お? という一昔前のヤンキーのようなやり取りを視線だけでかわす二人。

 目と目で通じあってる時点で仲がいいんじゃ、という無粋なことは誰も言わない。言っても否定されるのは目に見えているし、桃子曰く「だって面白くないじゃない」ということだからである。

 そうしてとりあえず拮抗していた二人に、突然事態を動かす伏兵が現れる。メガネに黒い三つ編みの少女――美由希だ。

 美由希はすっとごく自然に箸を伸ばすと、これまたごくごく自然に牽制し合っているお箸の下をくぐって目当てのおかずをかすめ取る。

 ちなみにそのおかず、なぜか最初から一品しか作られていなかった。

 そしてなぜか桃子はそんな美由希の行動を見て、隠れてつまらなそうに舌打ちをした。

 付け加えると、今日の朝食は桃子が腕を振るったものである。

「あー! 美由希ちゃん、それは〜」

「うちが食べよう思ってたのに……」

 美由希はそのまま口に持って行ったそれを美味しく頂いてから、二人に諭すように口を開く。

「だって、二人ともいつまでも食べないから。またいがみ合ってるとなのはが怒るよ」

「「うっ」」

 言葉を詰まらせた二人がなのはを見ると、なのはは可愛く頬をふくらませて私怒ってます、というポーズをとっていた。

「もうっ、二人とも! なんでご飯の時ぐらい仲良く食べれないんですか!」

「だってこいつが……」

「せやかてこいつが……」

「言い訳をしないの!」

「「はい……」」

 桃子はそんないつも通りの朝の風景を見て、楽しそうにくすくすと笑う。

 いくらか趣味の悪い楽しみ方をする時もある桃子だが、それも元をただせば家族としての楽しい時間をもっと感じたいからだった。

 家族で和気あいあいと食事をとる風景……。ああ、なんて楽しいのかしら!

 ……やはり、ちょっと方向性は間違っているのかもしれない。

「ホントあの二人も懲りないわねー、恭也」

「………………」

「……恭也?」

 普段から他人の気配やら何やらと反応するくせに、呼びかけても反応がないなんて、と訝しんで桃子は恭也の様子を盗み見る。

 すると、目に飛び込んできたのは恭也が憂いのある目で三人のやり取りを眺めている姿だった。

(……いえ、これは……なのはを見ているのかしら?)

 恭也の視線を詳しく辿ってみると、やはりいつもの説教劇を眺めているというよりは、なのはのことを見つめているように見える。

 しかし、あんな翳のある目でなのはを見るなんていったいどうしたというのだろうか。

 憂いを浮かべたセンチメンタルな目というか……なんだろう。なのはに何かあるんだろうか。

 気になった桃子はひとまず恭也に尋ねてみることにした。

「恭也、どうしたの?」

「……ん、ああ、母さん? どうしたんだ」

 いや、それはわたしが今言ったんだけど……。

「なんか、なのはのことじーっと見てなかった?」

「なのはを? ……気のせいだろう」

 桃子の言葉に、恭也はそっけなくそう返した。

 はて、気のせいではないと思うのだが……。

 桃子はそう思うが、恭也が違うと言う以上それ以外の回答は得られないだろう。本当に三人の様子を見ていただけかもしれないのだ。

 まあとにかく一応は納得して、桃子は朝の食事を再開する。

 かちゃかちゃと食器が合わさる音と、騒々しいながらも楽しげな喧噪。誰の顔にも笑みの絶えない食卓。それはいつもの高町家の風景だった。

「――…………」

 しかしそんな中において恭也の表情は相変わらず冴えず、泰然として落ち着き払った普段の彼の様子は食事を終えてもまだ見られることはなかった。







●その3





SIDE−Kyoya




「――……はあ……」

 恭也は、最近になって温かくなってきた陽気の中をゆっくり歩きながらため息をついた。

 というのも、朝からの自分の行動を省みてさしもの恭也もすっかり気が滅入っているからである。

 ――朝。朝食を終えたあと、恭也はリビングでくつろいでいたのだが……結果を言ってしまえば、まったく恭也の身体から力は抜けず全然くつろげていなかったりした。

 まあ、その原因は自分でもよく分かっているのだが。

「おかーさん、これはどこ?」

「ああ、それはこっち。届く?」

「うん。大丈夫!」

 原因とはつまり、これ。

 台所から聞こえてくる、ありふれたごく普通の親子の会話。その会話の一方の声についつい意識を向けてしまうからであった。

「できたよー、おかーさん」

 自分の知るなのはではないとわかってはいても、まったく同じ容姿の人間がすぐそばにいるのだ。それだけでなぜか恭也の身体はわずかに緊張してしまって、いつものようにとはいかないのであった。

 かといってさすがに普段はそんなことはないのだが、やはり今日見た夢の影響なのか、なぜか今日だけどうしてもそれが気になってしまうのだ。

 何分かそうしてそわそわとソファで過ごしていた恭也は、おもむろに立ち上がると台所の二人に聞こえるように声をかける。

「母さん、なのは。少し、外を歩いて来る」

「はーい、了解」

「いってらっしゃい、おにーちゃん」

「……ああ。いってきます」

 恭也は応えると、そのまま玄関に向かい高町家を出た。





 ――そして、今に至る。

「我ながら、女々しい行動だとわかってるんだが……」

 ふらふらと目的もなく海鳴の町をさまよい歩き、たどり着いた場所は小高い丘。父も眠っている景色のよい場所に設えられた霊園に恭也は来ていた。

 父の墓の前に立ち、その墓に手を合わせる。

 そうしていて、思い出すのは今日に限ってはやはりあの一日のことだった。

 なのはと一緒に行った縁日に士郎と桃子も来ていて、お花を摘みに行った桃子を待っている士郎に二人でいるところを見つかってしまったこと。

 勝手に出歩いて人様の子に迷惑をかけるな、と叱られ、すぐに身体ごと士郎に引き寄せられて耳元で「よくやった! さすがは俺の息子だ!」と囁かれて脇腹を殴ったこと。

 そのせいで士郎の怒りに触れて怒られたこと。

 ……そういえば、なのはは自分が怒られたと勘違いしていて後で誤解だと説明するのにひどく苦労した覚えもある。

 そして「俺のデートを邪魔するな」というありがたい言葉を贈られて再び二人で縁日に繰り出そうとした時。なのはに見つからないように嘘の指輪の話を聞かされたこと。

 ……少々腹の底から込みあがるものがあるが、まあいい思い出だ。死者は殺せないし、致し方ない。

 合わせていた手を離す。そして、恭也は今度はこれまで背を向けていた霊園の裏にある草原へと振り返った。

 木々と茂みの向こうにあるその草原をまぶたの裏に思い浮かべて、そこで出会った少女のことを思い出す。

 天真爛漫に笑う子だった。

 泣き喚いてもおかしくない状況に晒されながらも、決して泣こうとはしない強さもあった。

 しかしそれでも、小さく零した不安と悲しみの声に彼女は無理をしているだけだったのだと気付かされて、自分の馬鹿さ加減に腹が立ったこともあった。

 恭也は自分が無愛想で、人に好かれるタイプの人間ではないと考えている。さらには剣の道に生きてきたため、一般的な趣味やテレビの話などの話題にも対応できないつまらない奴だとも。

 しかし、なのははそんなことは気にせずに接してくれた。会ったばかりの俺に笑顔を向けて、友達だと言ってきた珍しい女の子だった。

 その好意は単純に嬉しかった。かつての御神の事件もあって人との関わりに臆病になっていた俺に差し出された幼い手は、自分に再び人との繋がりをくれる第一歩ともなったのである。

 差し出された手を、握り返してお互いの名前を呼んだ時。あのはにかんだ笑顔を覚えている。

 そして、そんな彼女に対して芽生えた気持ちも。

 ずっと覚えている。今でも。

 それが何を意味するのか、散々鈍いと言われ続けた恭也だって流石に気づいている。

 ようするに、高町恭也は彼女のことが好きなのだ。あの日から今日まで、ずっと。

「……ここには、思い出が多すぎるな」

 ふっと寂しげに笑みをこぼし、恭也は草原のほうへとゆっくり足を向ける。

 朝に見た夢のせいか、普段は意識して近寄ろうとしない場所であるのに特に抵抗もなく足が動く。

 それは夢を見たことであの頃のことを思い出した郷愁のような思いのせいか。

 それとも、彼女への思慕にわずかなりとも浸かりたいからか。

 

 ――あるいは、何かが起こる予感がしたのか。


 バチッ……。


「!?」

 突如すぐ近くからとてつもなく大きな静電気のような音が響いて、恭也は咄嗟に後ろに跳んで距離をとった。


 バチッ、バチッ……!


 静電気のような音は断続的に周囲に響く。最初の音と比べて、段々と音の鳴る周期が短くなってきている気もする。

 何が起こるのか。

 恭也は身を低くしてもしもの時に備えた。

「音だけじゃないな……、風も出てきた」

 しかし、丘から見下ろす町には恭也が今感じているような強い風は吹いていないようだ。草木が激しく揺れているのは恭也の周囲だけだった。

 確実に、何か起こる。

 恭也は気を練り、視線を鋭くした。

 風は強くなり、ついには暴風とも呼べるような強さになっている。断続的に聞こえていた音も、すっかり連続して聞こえるほどになっていた。


 バチンッ!!


 そして一際大きく音が響くと、カッと目もくらむ閃光が恭也に襲いかかった。

「ッ……!!」

 思わず目を閉じた恭也は、まずいと思い反射的に身体を左にずらす。

 しかし、そんな恭也の警戒は結果としては意味をなさなかった。襲いかかった閃光は数秒とたたずに消え去り、攻撃のようなものもなかったからである。

「……?」

 恭也は何とか直視を避けたおかげで無事だった目を、慣らせるようにゆっくりと開いていく。

 ぼんやりとした視界が徐々に恭也の眼にうつる。さらに目を開いていくと視界もはっきりしてくる。

 ようやく目の前の光景が目に映ると、恭也はそのまま目を最大限に見開いて言葉を失う。

「なっ……!」

 目の前には、風景が裂けて真っ赤な空間を内部に映した切れ目が浮かんでいる。

 強い風はその中から吹いてきているようだ。そして、静電気のような音はもはや雷として光を放ち、その裂け目の周りを囲っている。

「これは……いったい……」

 強風と雷光を纏った空間の裂け目という不思議な事態に、そういった不可思議には慣れた恭也も驚きを隠せない。

 呆然としていると、唐突に裂け目から吹く風が強くなった。

「くっ……!」

 びゅうびゅうと吹きつける風に腕をかざして風除けを作るが、せいぜい目を閉じなくていいぐらいの効果しか生み出さなかった。

 しかしそれぐらいでもいい。どうやらこの裂け目は何かを吐き出そうとしているようなのだ。それが危険なものなのかどうか見極められる目さえ生きていれば、後の対応は何とかすればいい。

 変わらず吹きつけて来る風に対抗しながら裂け目の奥を睨みつけていると、小さな人の形が浮かんできた。

 どうやらあの人間をこの裂け目は出そうとしているらしい。

 さらに見極めるべく、少しずつ近づいてくる人影に神経を集中させていく。

 ゆっくり、ゆっくりとその人影は近づき、その正確な全様を露わにしつつあった。

 じっとそれを見続けていた恭也は、それがどうやら自分とそう歳の変わらない少女であるらしいことを悟った。

 髪は茶色。服装は白を基調としたもので、手にはピンクの杖のようなものを握っているようだ。顔については、さすがにここからではわからなかった。

 しばらくすると、裂け目はその少女を吐き出した。地面に投げ出されそうになった少女を恭也は受け止めて裂け目に目を向けると、その裂け目はだんだんと収縮していき十秒もすれば消えてしまった。

「……なんだったんだ、あれは」

 恭也は思わずつぶやく。まるで経験したことのない現象だった。

 ……いや、待て。

 確かに吐き出されるようなものは知らないが、吸い込むものなら知っているはずではないか?

 中の空間も赤ではなく青で、ひどく穏やかな丸い穴のようなものを、自分は見たはずだ。

 九年前の、この場所で。

「!!」

 まさか、と思い恭也は腕の中の少女に目を移す。

 茶色い髪は長く、髪型は両側でしばったツインテール。服は白くところどころにアクセントのような青い線が走り、胸元には赤い大きなリボンが飾られている。手に握られたピンクの杖は、大きな赤い宝玉をその先端につけていた。

 顔は……似ていた。自分の妹に。まるで、成長すればこうなると言わんばかりの容姿だった。

「ぅ……ん……」

 眉をゆがめて、少女がうめく。

 声にも、聞き覚えがある。

 まさか本当に、という思いが恭也の中で膨らんでいく。

「なのは……か?」

 思わずもれた、といった様子の声だった。

 しかしその声で気がついたのか、その少女は小さく身じろぎをした後にゆっくりと目を開いた。

「あれ……ここは……?」

 まだ意識がはっきりしないのか、少女は顔をわずかに動かして周囲を確認する。

 そうすると当然顔は恭也のほうを向くわけで、すぐに恭也と目が合った。そして、その目線がゆっくりと自分の体のほうへ下がっていって……、

 少女は、自分が抱きかかえられていることを知った。

「ふわわわッ!?」

「あ、す、すみませんッ!」

 驚きと羞恥で声をあげて身体を動かしたなのはの姿に、恭也もはっとしてなのはを抱えていた腕を外していった。

 恭也の腕の中から解放されると、なのはは照れのせいかいくらか赤く染まった頬でぺこりと頭を下げた。

 さっきは動転してしまったが、よく考えたら助けてくれたのだということに気がついたのだ。

「あの……助けて頂いたみたいで、ありがとうございまし――?」

「あ、いえ、お気になさらないでください。大したことは……」

 恭也も動揺の抜けないままに同じく頭を下げる。

 そして顔をあげて少女の顔を見ると、少女は驚きの表情を浮かべたあと、あからさまにほっとした顔をした。

「?」

 初対面ではないかもしれないが、いきなりそんな顔をされたことに恭也は訝しむ。

「なーんだ。ここって海鳴かぁ……。うう、よかったぁ。管理外世界だったら目も当てられなかったよ……」

「管理外世界?」

 恭也がオウム返しのように呟くと、少女はきょとんとした顔をした。

「あれ、知らなかった? 管理局が管理していない世界のことだよ。おかしいなぁ、確か基本的なことはお兄ちゃんにも説明したはずなんだけど……」

 首をかしげる少女を見やりながら、恭也も盛大に頭をひねっていた。

 やはり聞いたことのない単語だ。それに、少女は勘違いしているようだ。確かに自分に妹はいるが、それは決して自分と一つ二つしか違わない少女ではない。

(いや、待て……ひょっとして……)

 自分はあの時の少女を平行世界のなのはではと考えていたはずだ。……とすると、あのなのはにも自分と同じ兄がいて、その兄と自分を勘違いしているという可能性がある。

 ということはやはり、この少女はなのはなのかもしれない。

(しかし、あの時のなのはの年齢を考えると、向こうの俺はかなり年上のはずなんだが……)

 それならばすぐに気づくのではないだろうか。

 それもあってどうにも恭也は自分の考えに自信が持てなかった。

「それにしても、お兄ちゃんなんか若くなってる?」

「………………」

 確かに枯れてるとは言われてきたが、恐らく十は上であろう向こうの自分と一目ではわからぬほどに似ているのだろうか。

 さすがの恭也も少し落ち込んだ。

 だがしかし、今の発言でこの少女があの時のなのはであるという確率は高くなった。

 恭也は我知らず胸が高鳴るのを感じた。

 しかし、まずは確認を取ることが先決だ。意を決して恭也が口を開こうとすると、それを察してか少女はそれを制止した。

「あ、ちょっと待って。連絡を取って、早く戻らなくちゃ」

 出鼻をくじかれた恭也は、とりあえず大人しく従う。何もすぐにいなくなるということはないだろう。どうにも先ほど現れた事象は異常なものに見えた。

 もしそれと似た移動法はあるにしても、あんなに突発的なことにはならないはず。話す時間ぐらいはあるはずだ、と考えて。

「――…………」

 それから少女は身じろぎせずにじっと押し黙ってしまった。

 恭也はただその少女が言う連絡とやらが終わるのを待っていた。

 と、一分ほどたつとその少女は先ほどの落ち着きとは打って変わって、面白いほどに動揺し始める。

 いったい少女の内で何が起こったのか、おろおろと挙動不審な動きで身体を揺すっている。

「え、うそっ、な、なんで!? え、――……や、やっぱり通じない! ど、どうして〜!?」

 なんだか非常にテンパった様子の少女を見かねて、というのもあって恭也はどこか控え目に声をかけた。

「あの、すみませんが……」

「え、あ、お兄ちゃん! うう、どうしよお〜! アースラと念話がつながらなくって〜」

「そのことはよくわかりませんが……」

 いまだに慌てる少女の肩に手を置いて、落ち着かせるようにしてから恭也は口を開く。

「……まず、俺はあなたの兄ではありません」

「……え? あ、でも確かにお兄ちゃんより若い、かも。……じゃあ、本当に違う人?」

「はい」

 恭也の肯定になのはは驚く。

 次いで、何かに気がついたかのようにはっとするが、すぐに頭を振ってその考えを打ち消した。

「で、でもこんなに似てるなんて……」

「そのことなんですが……」

 恭也は確信していた。

 今のなのはの反応。あれは、ひょっとしたら自分と同じなのではないだろうか。

 自分と過ごした一日のことを覚えているからこそ、今の状況を鑑みて何かに気がついたのではないだろうか、と。

 だから、絶対に確認が取れる最終手段を使う。

 恭也はズボンのポケットに手を入れ、今朝方そこに入れたばかりのものを取り出す。

「……これに、見覚えはありませんか」

「!!」

 取り出したのは、わずかに色あせた桜色のリボン。恭也の武骨な手には似合わないそれは、かつてのあの日に少女から渡された大切な品だった。

 そして、恭也はその彼女に指輪を渡したのだ。

「…………ぁ、あの……」

 少女は恐る恐るといった様子で胸元に手を入れる。

 恭也は一瞬何をするのかと動揺したが、それも少女の手に握られていたものを見て消えていく。

 少女の手には、紐に通された小さな子供用の指輪がおさまっていた。

「やはり……」

「そ、それじゃあ……」

 少女――なのはは信じられないとばかりに両手を口元にあてる。

「きょうや、くん……?」

 恭也は力強くうなずいた。

「ああ。久しぶりだな、なのは……」







●その4





 恭也は人生でこれまでに経験したことがないぐらいに激しく混乱していた。

 同時に動揺もしていたし、テンパってもいる。……あと、ほんのちょっと嬉しかったりもした。

 その理由は恭也の現状を見ればすぐにわかるのだが……。

 早い話、恭也はなのはに抱きつかれていた。

「………………」

「あ、あー……な、なのは?」

 しかし抱きついてきたなのははそれ以上何も言うことはなく、そのことがさらに恭也を混乱させている。

 はっきり言って、抱きつかれるのは嬉しい。恭也も男だ。可愛い女の子との接触を嫌がる理由がない。

 しかし、ここで問題なのが恭也はその女の子のことが好きであるという点だ。

 いくら鉄の意志を持つ恭也であっても、年頃の男の子なのだ。

 ぶっちゃけ、ずっとこの体勢で我慢し続ける自信がなかった。

「……っと……た……」

「? なのは、もう少し大きな声で……」

 何事か呟いたなのはに少し耳を近づけながら、恭也が言う。

 そのかいもあってか、再び紡がれた言葉は聞き取ることができた。

「……やっと、会えた……」

「なのは……」

 万感の思いのこもったなのはの言葉に、恭也も感慨深げに彼女の名前を呼ぶ。

 そう思っているのは恭也も同じだった。

 なにしろ、初めて好きになった相手で、今でも忘れられなかった相手なのだ。

 再会の喜びは言葉で言い表せないほどに、心の中で渦巻いている。

「俺も、もう一度会えて嬉しい。なのは……」

「恭也くん……」

 なのはは幾分うるんだ目で恭也を見る。

 なのはにしてみても、恭也は長い間ずっと想い続けてきた相手で、この時空の成り立ちを知ってからは会えないものと半ば諦めていたことでもあったのだ。

 “平行世界とは、原則として異なる時空においてのみ存在するものである可能性が高い”

 これがミッドチルダでの平行世界に関する考え方だ。根拠は、数多くの次元世界を管理する管理局であっても、いまだにひとつとして平行世界を発見できた記録が存在しないからだ。

 ゆえに、数学的には存在を証明されていても、平行世界については半ば机上の空論と化していた。

 だが、数字の上でとはいえ存在が確認されているのだから、一応は建前として理屈が必要だった。それがすなわち、『発見できていないのは、平行世界とは我々が干渉できるこの時空とはまったく別種の時空において存在しているのだ』というものだったのだ。

 その別の時空という考え自体が胡散臭いこときわまりないのだが、とりあえずはそういうことで決着がついたらしい。

 ようするに、あるんだろうけど確認が取れないんじゃしょうがないじゃん、ということである。

 しかし、なのははそれを知ったとき目の前が暗くなっていくのを感じた。

 数多の次元を行き来する時空管理局であっても、不可能であるということは、もう二度と恭也とは会えないということと同義だったからである。

 それが、突然の事故が原因とはいえ今こうして再会がかなったのだ。

 それがどれだけ天文学的な確率なのかなのはには見当もつかないが、今はこの神の采配に感謝したい気分だった。

 こうして、ずっと想い続けた人の腕の中にいることのできる奇跡を。

「きょうや、くん……」

 うるんだ目のまま、なのはは下から恭也の顔を見上げる。

 整った顔つきに、強い意志を感じさせる力強い瞳。自分よりも十センチ以上は背の高い、厚い胸板からわかる鍛えられた体躯。

 あのとき恋した少年は、かっこいい男性へと成長していた。

 いまだくすぶる恋心を抱いてきたなのはは、そんな恭也の姿を確認するだけで胸が高鳴るのを感じた。

 優しく自分を見つめているその視線に目を合わせ、心の中で意を決して爪先を伸ばそうと身体を緊張させた直後――、

「そ、そういえばなぜ急に此処に来れたんだ?」

 恭也はあからさまに視線をそらして話題転換を図った。

 それにむっとなるのは、当然なのはである。

 いい雰囲気が漂い、自分の気持ちも再確認して、大きな決心とともに行動しようとした矢先にこの仕打ちだ。

 機嫌が悪くなるのも当然というものである。

 それどころか、恭也にとって自分はただの懐かしい友達にすぎないのだろうかとも考えてしまう。

 実際は全くそんなことはなく、そういった経験がない恭也はただ困惑して思わずやってしまっただけなのだが、そんなことをなのはが知る由もない。

 ちなみにそこら辺が恭也が鈍いとか唐変木とか言われる理由でもあった。

 いくらか落ち込んだ気持ちと、恭也を責める気持ちをなんとか抑え込んで、なのはは恭也の腕の中からそっと離れた。

「……うん。じゃあ、話すよ。恭也くん」

「あ、ああ」

 しかし完全には抑えきれなかったようで、なのははじとーっと恭也を睨みつけていた。

 それに冷や汗を流してしまうのは、まあ……自業自得だろう。

「それじゃあ、まずは今のわたしの立場から説明するよ。
 わたしは、時空管理局本局武装隊航空戦技教導隊所属、高町なのは二等空尉。主な仕事は、武装局員の指導と非常時における武力鎮圧……ああ、捜索指定遺失物の確保もあったかな。これが今のわたしの立場だよ」

「ち、ちょっと待ってくれ」

 なのはの早口言葉のような自己紹介に、恭也はたまらず待ったをかけた。

「じくう……なんとかとは何だ? それに、武装隊? 聞くからに何か物騒な感じがするんだが……」

「まあ……物騒ではあるかも。ようするに、警察とか軍隊みたいな治安維持組織に所属しているわけだし」

「なにっ!?」

 軍と聞いて、さすがの恭也も驚きを隠せない。

 どう聞いたって危険極まりないもののような気がする。身も蓋もない言い方をしてしまえば、軍とは力を以て敵を潰す職業である。

 もちろん、その仕事のおかげで国の平和や人民の未来が守られていることは事実であるし、多くの人を守る矢面に立つことは立派と言えなくもない。

 しかし、目の前の少女はどう考えても銃やらミサイルやら飛び交う戦場に似合っているとは言い難く、さらには軍にいるということはいつ死んでもおかしくないということではないのだろうか。日本の自衛隊のような組織は世界では稀なのだ。

(向こうの俺は、なぜなのはを止めなかったんだ!)

 会ったこともない平行世界(恭也はそう考えている)の自分に怒鳴り散らしてやりたい恭也だった。

「まあまあ、落ち着いて恭也くん。管理局は恭也くんが考えてるようなところじゃないし、わたしたちが使う武器は……この世界での現代兵器とは別物だしね」

「? それは、いったい……」

「それじゃあ、簡単に説明しようか。管理局と、この時空に広がる次元世界のことを……」

 そして、なのはは語り聞かせるように恭也に話す。

 自分の使う力、魔法とその特性。

 世界というものは一つではなく、それは宇宙よりも大きな規模で数多存在しており、それぞれの世界にそれぞれ独自の文化や技術が存在していること。

 そして、中には世界を渡ったり破壊してしまう技術もあり、それを用いれば多くの世界が滅びてしまう危険性があること。

 そうした事件を防ぐために組織された、時空管理局のこと。

 そしてその扱う魔法という技術と、事件や危機の鎮圧を組織の大きな役割としているため、この世界の軍のように死と隣り合わせということはまずないこと。

 もちろん、殺傷設定で攻撃される場合もあるし、戦場ではやはり死ぬこともあり得る。が、非殺傷設定の存在や管理局という大きなバックアップもあってその可能性は近年では減っていること。

 そして、恭也と別れた後に自分がたどった道をかいつまんで説明し、最後になのははなぜ自分がここに再び来れたのかを自分の予想を交えて話す。

「管理局の大きな任務に、事件の鎮圧のほかにもう一つあるの。……わかるよね?」

「ああ。さっき言っていた、ジュエルシードや闇の書といったものが関係しているんだろう」

「うん。もう一つの重要な仕事は、そうした大きな力を持つ古代の遺産――ロストロギアを回収して管理保管すること。ロストロギアには、危険なものからそうでないものまで多くあるけど、それはどれもが現代では再現不可能なオーバーテクノロジーなの。
 危険なロストロギアは、一つだけでいくつもの世界を滅ぼすことすら可能にすることもある。だから、それの早期発見と確保はわたしたち前線の魔導師に部署関係なく課されている重要任務でもあるんだ」

 最近ではそれよりも自分の縄張りにこだわる魔導師も多いんだけどね、となのはは苦笑する。

 それは恭也もわかる。要するに、余計なことに手を出して責任が及ぶのが怖いということだろう。組織である以上、それは避けられない現実であるのかもしれなかった。

「それで、今回のことの原因なんだけど。わたしは今回ある案件を担当していたの。ロストロギアの発見を確認、ただちにそれを回収せよ……っていう、まあよくあることだったんだけどね」

「よくあるのか?」

「うんまあ。わたしがもといたところはロストロギア関連の事件を担当することが多かったから」

 ジュエルシードに闇の書。一年で二つのロストロギア事件に巻き込まれ、それをいずれもほぼ理想の形で終結させたロストロギア事件の救世主。戦艦アースラ。

 今でこそ艦長も変わり、皆それぞれの職場に散って行ったが、その偉業は未だに語り継がれている。

 そしてそのクルーの一人であったなのはは、その高い魔力資質も手伝ってかよくこういった案件を回されることがあるのだった。

「それで、今回のロストロギアは攻撃能力のないものであることは判っていたから、わたしは単独で赴いたの。まあ、後方に部隊はいたんだけどね」

「まて。そこまでわかっているなら、なぜその時点で確保しなかったんだ?」

 恭也から当たり前といえば当たり前の質問をされ、なのはもため息交じりに口を開く。

「……発見したの、陸の人たちだったんだけど、空と陸って仲が悪いの。それで、自分たちがもしロストロギアを下手に刺激してはいけない。ここは経験のある方に頼むべき、って言って聞かなくて、空で名高い高町二等空尉なら安心でしょう、ってことで経験者であるわたしに回されたの」

「……最低だな」

「言わないで……。なんだかすごく情けない気持ちになるから……」

 本当に身内の恥だと思っているのか、なのはの溜め息は重い。

 これなら、はやてが色々と考えるのも無理はない、となのはは思うのだった。

「……まあ、そんなわけでわたしはその任務にあたったんだけど……。そのロストロギア、ある意味ではすごく危険なものだったの」

 真剣身を帯びた声に、恭也も思わず身体に力を入れた。

「攻撃能力はゼロ。自律移動も不可能。知能の存在も確認されず。危険性は限りなく低いロストロギア。……けど、そのロストロギアが持つ唯一の機能が問題だった」

「それが、今回のことに?」

 恭也の言葉に、なのはは首肯した。

「その機能とは、恐らくあらゆる場所への転送を可能にする機能。距離は関係なく、すぐにでも現地に飛ばす能力を持つロストロギア。詳しく調べないとわからないけど……たぶん間違ってないと思う」

 最も魔法技術が発達しているといわれるミッドチルダでも、長距離の転送にはそれなりの時間と設備が必要だ。また、一つの施設だけでは距離が足りず、いくつかの中間点を経由しなければ遠くの距離には移動できない。当然、それに伴って時間もかかる。

 だが、あのロストロギアが突然作動した瞬間、なのはは気付けばここにいた。これは今までの転送技術から考えればまさに異常なことであった。

 そして、なのはの考えをさらに支持する存在が目の前にいる。

 そう、自分の兄とは違う高町恭也の存在だ。

 平行世界とは、異なる時空にしか存在しない世界である。それがどれだけの距離なのかはわからないが、少なくともミッドと地球の距離よりは遠いだろう。だというのに、この高町恭也のいる地球に自分は来ている。これは、距離に関係ない転送というなのはの説を強く裏付けていた。

 それに伴って明らかになるのが、そのロストロギアの危険性だ。

 飛ばされた先が同じ世界ならまだいいが、もし別の時空であった場合、下手をしたらその時空は全く違う世界法則を持っているかもしれないのだ。

 そんなところに問答無用で介入していく力を持つロストロギア。確かに攻撃は出来ないが、悪意持つ者の手に渡れば誰にも気付かれない場所からの奇襲攻撃も可能になる。別の意味で非常に危険なロストロギアであった。

「ロストロギア自体は向こうにあるから、そのうち皆が解析して助けにきてくれると思う。だから、この世界に危険が訪れることはないから大丈夫だよ。……とまあ、これがわたしが今ここにいることの説明、かな」

「……なるほど」

 恭也は腕を組んでなのはの話に相槌を打つ。

 とりあえず恭也の感想としては、世界は広いんだなあ、の一言だった。

 とりあえず平行世界の存在は認めていた恭也であったが、どうやら世界というものはひどく複雑に絡み合って存在しているようだ。

 学術的興味はないが、単純にすごいと思う恭也だった。

「それと確認なんだが、やはりなのはは平行世界のなのはなのか?」

「うん。たぶんね。そんなに大きな違いはないだろうし……っていってもわたしたちの年齢は違うけど」

「まあ、そうだな。こっちのなのはは今九歳だ」

「思い出深い年齢だなぁ……。わたしのところのお兄ちゃんは二十五かな?」

「二十五……」

 年上であることは覚悟していたが、数字で聞くと少しへこむ複雑な恭也の男心である。

「それで、月村忍さんと結婚して子供もできて、仲良く暮らしてるよ」

「なにッ!?」

 あまりにも衝撃的な内容の言葉を聞いて、思わず恭也はなのはの肩をがしっと掴む。

「そ、それは本当かッ!?」

「う、うん……本当だけど……?」

「そ、そんなバカな……」

 力なく崩れおちる恭也に、なのはは訳もわからずとりあえず肩を叩いて慰めた。

 あの歩く迷惑と……とか、マッドサイエンティスト……とか、あれはアイツが勝手に言ってることなんだ……とか、色々と聞こえてくるのだが、なのははそっと心の耳を閉じて聞かないふりをした。

 しばらくするとなんとか立ち直ったのか、恭也は気だる気な動作で立ち上がる。そして気持ちを切り替えるように一息吐くと、なのはの顔を正面から真っ直ぐに見据えた。

 とてもさっきまで膝ついて落ち込んでいた男の姿には見えなかった。

「忍のことは置いておこう。それより、平行世界と言っても具体的にどこがどう違うんだ?」

「んー……それは、わからないかな。いくつか確認してみないとね」

 それを聞くと、恭也はそうか、とだけ返して押し黙った。

 しかしすぐに何事か一つ頷くと、改めてなのはに視線を向ける。

「ところで……突発的にここに来てしまったということは、行くあてはないんだろう?」

「え、うん。そうだけど……」

 きょとんとした顔でなのはは答える。いくらここが自分のよく知る町とほぼ同じとはいえ、住む場所まではそうはいかない。

 恭也はその返答に間髪入れずに提案する。

「なら、うちに来ないか?」

「へ?」

 空気の抜けるような音がなのはの口から漏れた。

「その管理局の人たちが来るまで野宿というわけにもいかんだろう。そもそも女の子にそんなことはさせられん」

「た、確かにお金も持ってきてないけど……」

 というわけで提案をのまなければ野宿決定というわけなのだが、なのはは二の足を踏む。

「うちは何人か預かってる子もいるから、遠慮する必要はないぞ」

「預かってる子? 居候さん?」

「……居候というか、妹的存在というか。……まあ、家族だな」

「そうなんだ……」

 うーん、となのはは考え込む。

 恭也の家ということは、間違いなく高町家だろう。だからこそ何となく自分は足を踏み入れるべきではない、と思ったのだが、聞く限りそういったことを気にする様子はない。

 自分の知る高町家では、そういった人たちを預かっているということはなかったから、やっぱりここは違う世界なんだなあ、と思う。

 同時に平行世界であっても、やはり自分の家族は優しいのだと思うとどことなく嬉しくもあった。

 なのはがそんなことを考えていると、恭也がこほんと小さく咳払いをした。

 その音につられて顔をあげると、恭也が照れだろうか頬を指でかく仕草をしている姿があった。

「その……なんだ……。俺も、なのはが来てくれれば嬉しいからな」

「えっ……?」

 言われて一瞬あっけにとられるが、その言葉を理解した途端なのはの顔がぼっと火がついた様に染まる。

 恭也自身も言ってやはり自分で照れたらしく、目をそらしたままだった。

「あ、ぅ……」

「………………」

 なのはは声が詰まって言葉が出ず、恭也はそれ以上何か言う様子はない。というか、それどころではない感じだ。耳が真っ赤だった。

 思わぬ不意打ちに、さしもの管理局不屈のエースも容易には動悸を抑えられない。

 それでも何とか暴れる心臓と火照った顔を丁重に無視して(開き直ったとも言う)、なのははようやく口を開いた。

「……それじゃあ……お、お世話になってもいい、かな?」

「そ、そうか。……じゃあ、案内しよう」

「お、お願いします」

 お互いに全く平静に戻ることはできていなかったが、何とか体裁は取り繕ってどことなく余所余所しいやり取りを行うことができた。

 とりあえずはそのことにほっとする。火照った顔はなのは恭也ともに相変わらずだったが。

 そうしてなのはが高町家に向かうことが決まり、早速向かおうとしたところで思わぬ待ったが入った。

『――Master』

「ひゃっ!?」

「だ、誰だ!?」

 なのはは単純な驚きで、恭也は突然の第三者の登場に対する驚きと困惑によって普段の彼らからは想像も出来ないほど狼狽した声を出した。

 やはり、さっきのことが尾を引いているらしい。

「れ、レイジングハート! どうしたの?」

 なのはは自分の手に握られている桜色の杖に話しかける。正確には、その本体である赤い宝玉部分にだが。

『Sorry my master. However, I think whether it’s inconvenience to stay having worn the Barrier-Jacket.(申し訳ありません。しかし、バリアジャケットを着たままでいるのは都合が悪いかと思いますが)』

「……ああっ!」

『You did not notice,after all…(やはり、気がついてなかったのですね……)』

 杖に据えられた宝玉が明滅すると、どこか呆れを含んだ声が響いてくる。

 なのははそんなパートナーの言葉にうなだれた。

「うう……言わないで……。とりあえずレイジングハート。バリアジャケット解除、あなたも待機モードに移行して」

『All right,my master.(了解しました)』

 言うと同時に、なのはの身体を纏っていた白と青の衣装は消え去り、きっちりとしたスーツの格好になっていた。まあ、その格好も白と青だったが。

 そして、なのはの身長ほどもあろうかという杖も光を纏って縮んでいき、手のひら大の小さな赤い玉になると、なのはの手の中におさまる。

 その一連の様子を、恭也はただ見つめていることしかできなかった。

「……ひょっとして、それが……」

「あ、うん。これがわたしの大事なパートナー。レイジングハートだよ」

『Nice to meet you,Mr.(はじめまして)』

「あ、ああ、はじめまして。あー……レイジングハートさん?」

 レイジングハートに恭也が挨拶を返す。と、なのはがそんな自分を見てくすくすと笑っているのが見えた。どことなく、レイジングハートも驚いているように思える。

「ふふっ、デバイスに敬語で話しかけてくる人初めて見たよ」

『…It’s a fresh experience.(……新鮮です)』

 何やら自分が取った行動がよほど見慣れないものだったらしい。

「む……仕方ないだろう。俺は初対面ではまず敬語で話すことにしているんだから」

 少しむっとして恭也が言うと、なのははどこか納得したような顔をした。

「ああ、それで九年前の時も最初は敬語だったんだ?」

「……まあ、な。もう癖のようなものだな」

 ふーん、とまだ小さく笑ったままなのはは相槌を打つ。

 なにがそんなに可笑しいのかと恭也は疑問に思うが、どちらかというと嬉しそうな顔をしているので、まあいいかと思いなおす。

 さて、これでもうこの場に思い残すことはないだろう。管理局の制服とやらはいささか目立つような気もするが……服装程度、自分の知り合いたちの変人ぷりに比べれば瑣末事だとも思える。

 自分も周囲からは変人扱いされていることを棚にあげ、そんなことを思う恭也だった。

(まあ……そこまであり得ない服装でもないだろう)

 さっきのバリアジャケットのままだったら、さすがにおかしかっただろうが。

 気がついてくれたレイジングハートに感謝だった。

「さて……」

「うん?」

 恭也はなのはに向き合って、笑みを浮かべる。

 あまり笑うということのない恭也だが、今日はここ数年でも間違いなくベスト3に入る良い日だ。

 たまには、心から笑ってみるのもいいだろう。

 それに応えるように、なのはも笑顔を浮かべる。

 そのことに不器用ながらも笑みを深くし、恭也はなのはを促す。

「……案内しよう。見知った街かもしれないがな」

「にゃはは。それでもいいよ。行こう、恭也くん」

 二人並んで小高い丘の草原を後にする。

 偶然がもたらした九年越しの再会だったが、湿っぽかったのは最初だけ。なんともドラマのない再会だった気もするが、そんなことは関係なかった。

 幼いころの別れから、ずっと指輪とリボンと共に互いの心にあった気持ちに向き合えるチャンスが巡ってきたのだから。

 まるで奇跡のような確率で。

 でも、それすら二人にとってはどうでもいいこと。

 ただ今は再び出会って話すことができる喜びをかみしめながら、歩きなれた道を隣り合って進んでいくだけだった。






●その5




「しかし……やはりというか、なんというか……」

「目立ってたね、わたし……」

 立派な門構えの家の前で溜め息と共に吐き出すのは、ここにたどり着くまでの道中のことだ。

 やはりなのはの着ている管理局航空隊の制服は目立つようで、ちらちらとひっきりなしに視線を感じたのだ。

 コスプレかなにかだと思われていたのかもしれない。

「まあ、もう大丈夫だろう。ようやくというか、家に着いたからな」

「うん。それにしても……」

 なのははもう一度あらためてその重厚な門を見上げ、次いで門の中に見える家を見つめた。

「――やっぱり、おんなじなんだねぇ」

「そうなのか?」

「うん」

 恭也はこの自分の家しか知らないから何とも言えないが、平行世界から来たなのはは不思議な感慨のようなものを感じているのだろう。

 恭也も見慣れた自分の家を見てみるが、それはやはり見慣れた我が家でしかなかった。

「……そういえば、恭也くんってあの時は不破って名乗ってなかった?」

 門構えに取り付けられている『高町』の表札を見て、ふとなのはは始めて恭也に名前を尋ねた時のことを思い出す。

 確かに、あの時は不破恭也と名乗っていたはずだった。

「ああ……あれは父の旧姓だ。高町は今の母さん――高町桃子と結婚してからの名字だからな。……知ってるんじゃないのか?」

 もとはほとんど同じ家庭を持つ身として、なのはは当然知っていると思っていた恭也は微かに驚いてなのはの顔を見る。

 んー、となのはは唇に指をあてて考え込む。

「……聞いたことないかも。なんだか、あんまり昔のことは話したくないみたいなんだ、お父さん」

「…………ん?」

 ちょっと待て。

 恭也は今のなのはの言葉の中に聞き捨てならないものを見つけた。

「お父さん? 父さんは……生きているのか?」

「え? うん。……昔、すごい大けがを負ったことはあったけど、今では元気に喫茶店のマスターやってるよ」

 そしてなのはも恭也と自分の言葉の祖語に気がつき、はっとする。

「まさか……この世界のお父さんは……」

「……ああ。もう死んでいる」

「……っ!」

 思わずなのはは息をのんだ。

 家に居候がいる、と言われたあたりからやっぱりここは平行世界で自分たちの世界とは違うと思っていたなのはであったが、今のはあまりにも大きな違いだった。

「……おそらく、その大怪我を負ったのはボディーガードの仕事中だったのではないか? そして、子供をかばって負傷した……」

 確認するように言う恭也に、なのはは口元に手をあててこくりと頷く。

 それを受けて、恭也も得心がいったというように頷く。

「この世界の父さんはその怪我が原因で死に、そちらでは生き残った……。これが、“あるいはあったかもしれない可能性”の世界、なのかもしれんな……」

 “もしも”の世界。それが一般的な平行世界の認識だ。

 父・士郎が生きているか死んでいるか。これもまた、もしもの可能性だったのだろう。

 恭也は士郎を父として、師として尊敬していた。人としては微妙であるが……それでも、その心に持つ信念には常に敬意をもっていた。

(父さんが生きている世界があるのか……。俺が知る父さんではないが……)

 それでも、嬉しいと感じるものだな……。

 そう思いつつ恭也はそっと目を閉じて空を見上げた。どこかの世界で生きている士郎のことを思う。根は誠実な人だ。きっと、向こうでも人のために……人々の笑顔のために生きているのだろう。

 喫茶店のマスターとはまた、似合わない気もするが。

 ふっと小さく笑って恭也は目を開けた。

 そして空を向いていた視線を下に下げてきて……ぎょっと目を見開いた。

「…………っ」

 なのはの頬を涙が伝っていた。

 九年も前のことではあるが、なのはは一度こちらの世界の士郎にも会っていた。その時に恭也のことを自分の兄の恭也では、と考えたのだ。その時のことはよく覚えている。

 その時に、なのははよくわからなかったが怒られたことも。

 恭也が何か反論している前で、どこか飄々として温かな雰囲気を纏っている人だった。自分の知る父とはまた違う空気を持つ人だった。

 会っていた時間は数分もないが、それでもなのはにとっては違う世界とはいえ、自分の家族。よく知っている親しい人だ。

 一瞬、心のどこかで“もし、あの時に父がそのまま死んでいたら”と考えた途端、一気に涙があふれてきてしまった。

 なのはは、幸運なことなのだろうが親しい人を亡くした記憶がない。

 幼いころに世話になった祖母も、いまだ元気に生きている。祖父はなのはが生まれる前に亡くなっていた。

 そんななのはにとって、初めて人を亡くしたと思えたのがかつての闇の書事件でのリインフォース。その時も悲しく、残されたはやてのことを思うと、泣き出しそうな気持ちになったものだった。

 今回は、その時とはまた違う気持ちだった。平行世界とはいえ、自分の父だ。一度接したこともあるし、どんな人だったのかも思い描くことができる。

 その人が、亡くなった。あの、温かで大らかなお父さんが。

 そう思うと、涙が出てきてしまうのだ。大泣きはしない。けれど、じわじわと滲んでくる悲しさがあった。

 なのはは声を押し殺し、目に溜まった涙をこれ以上こぼさんとばかりに目元に力を込めるのだった。

 
 これに焦ったのはもちろん恭也である。

 視線を下げていきなり目に飛び込んできたのは、なのはの泣き顔。

 それだけでももうかなり動揺しているというのに、場所もまずかった。

 ここは、高町家の門の前である。重ねて言うが、門の前なのだ。ようするにご近所様から丸見えで、誰かが通ろうものなら指をさされて非難され、ひそひそと陰口をたたかれかねない場所なのだ。

 それらの要因から、恭也は大変焦った。

 さすがの恭也も女性の涙には勝てない。同時に、世間様の目にも。

 珍しくも恭也はこれからどうすればいいのか、対応策が全く浮かばないという事態に陥っていた。

 そのまま全く打開策もなく狼狽していると……。

 ふと、泣き腫らして潤んだ目をこちらに向けるなのはと目が合った。

「――――――」

 恭也はその視線を受けて、またその目を正面から見据えて、まるで心の中がこれまでとは全く違う壁紙に張り替えられていくような。強制的にリフォームされて今まで感じたことのない何かに心を埋めつくされていくような感じを味わっていた。

 何だかこう、今までの自分じゃない自分が台頭してくるような。

 知らない自分に出会えたというか。

 ――とまあ、何だかよくわからない表現をしたが、ようするに。

 このとき、恭也の中で何かが切れたのは間違いのないことだった。

「ふ……ぅ……ぇ、あッ……!?」

 唐突に恭也がとった行動に、思わずなのはは口元を押さえていた手を離し、声をあげていた。

 そしてだんだんと今の自分の状況を理解すると、明らかに涙のせいではない赤みが顔にさした。

 恭也に抱きしめられている、という状況を。

「……きょうや、くん……?」

 どうにか、といった感じでなのはが恭也の名前を呼ぶと、恭也はなのはの耳元で小さく呟いた。

「……父さんは……」

 びく、となのはの身体が揺れる。構わず、恭也は続けた。

「父さんは、その事件で確かに亡くなった。……だが、父さんのおかげで助かった命もある。フィアッセという……俺の姉のような人だが……父とも旧知の仲にあった彼女は当初こそひどく落ち込んでいたが、今ではよく笑う人になってくれた……。
 ……なぜ、彼女がそんな明るい人になったか、わかるか?」

 なのははなんの反応も示せなかった。わかるような気もするし、わからない気もする。

 それでも何とか、自信なさげに自分の考えを口に出した。

「……お父さんが、望まなかったから……?」

 なのはの知る父は、笑顔に囲まれている姿が、とても似合っていたから――。

「そうだ。父さんは、ボディーガードという仕事を通じて人を……もっと言えばその笑顔を守りたいと言っていた。……父さんは死んだが、それをいつまでも悲しんでいては、その信念のもとで守り続けてきた父さんが浮かばれない。
 ……だから、フィアッセは笑うようになった。人に笑顔を与えられるようになりたい、と願って。 ……なのは……だから……」

 腕の中のなのはに諭すように語りかけると、なのはは小さな声で、うん、と頷いた。

  しばらくはそのままじっとしていたが、唐突に跳ねるように恭也の胸に押しつけていた顔を上げ、少し潤んだままの瞳でにっこりと笑った。

「……いつまでも悲しんでいたら、お父さんに申し訳ない、よね。……ね、恭也くん……」

「なんだ?」

「今度、お墓参り行きたいんだけど……ダメ、かな?」

 遠慮がちに言うなのはに、恭也は笑みを浮かべて答える。

「いいに決まっているだろう」

「……うんっ!」

 破顔して頷くと、なのはは恭也の首元にぎゅっと抱きついた。

 突然のことに驚き慌てる恭也の身体を押さえつけるようにして、なのはは恭也の耳元でささやく。

「……ありがとう、恭也くん……」

「ぅ……あ、ああ……」

 相変わらず抱きつかれたままという、恭也の精神衛生上非常によろしくない状態であるが、無理やり引きはがすわけにもいかず、恭也は半ば虚ろに返答を返す。

 なのははその後も恭也を離す気配がない。恭也はさらに混乱する。

 主に、なのはの体温とか、柔らかさとか、香ってくる女の子らしい匂いとか、そういうのが原因で。

 抱き返すべきか? いやいや、しかし……。というか、世間様の目がまずいだろう。今は人がいないといっても……。だが人がいないのだから……。いや、というか論点はそこではないだろう……。だが、しかし……。

 恭也の手が無意味に空を彷徨う。

 (ど、どうしたものか。どうしたらいい。……り、理性が持たん……)

 いよいよ恭也の鉄の意志もかつてない強力な攻撃の前に崩れ去ろうという時が近づく。

 恐る恐る、ゆっくりと恭也の手がなのはの背に伸びる。

 そして、もうちょっとで背中に手が触れようか、という瞬間――、


「……お、お兄ちゃん?」


 聞きなれた、妹の声が聞こえたような……?


「ッ!?」

「ひゃあっ!?」

 がばっと恭也の手が瞬時に戻り、なのはの肩を掴んでなのはを離す。

 なのはも突然加わった声に驚いて身を引こうとしていたため、ものすごい勢いで二人は距離をとることに成功した。

 そして、そんな二人を見ていた少女はその幼い瞳で一部始終すべてを目撃していた。

「な、なのはっ……?」

 目に見えて動揺しているという珍しい兄の姿と、

「え、えとその、ああ、今のは違って、その……!」

 真っ赤になってしどろもどろに言い訳をしている女性を見た幼い少女は、その年齢に見合わぬ明晰な思考をもって、今この時に最も適切だと思われる行動を選択した。

 そして、それを忠実に実行する。

「……お邪魔したようですねー。でもお兄ちゃん、お家の前はちょっと無防備だと、なのはは思うのですよ」

 そう言うと、つつつ……と静かに自分が出てきた玄関へと戻っていこうとする。

 なのははよく空気の読める小学生であった。

「ま、待ってくれなのは――!」

「ご、誤解なのぉ〜!」

 そして小学生に追いすがる大人二人という何とも奇妙な構図が生まれたのだった。







●その6




 チッ、チッ、チッ……。

 休日の昼下がり、普段ならそれなりに騒がしくなる高町家のリビング。しかしそこは今日に限っては時計の針の音すらはっきり聞こえるほどに静寂に満ちていた。

 だからといって、実は人がいないというわけではない。というより、むしろこの家の住人全員がこの一室にそろっているのだが……。

 何とも珍しいことに、誰も口を開かず騒ぎを起こしていないのだ。これは高町家でははっきり言って異常な現象であった。

 とはいえ、それを指摘する者はいない。

 なにしろ、全員が一人……いや、二人のことを穴があくほどに凝視しているからだ。桃子だけはこれでもかというぐらいにニヤけた顔でその二人を眺めていたが。

 この家の住人+一人が今いるのは、リビングでいつも食事を行うテーブルだ。

 上座に桃子。そしてその両横を向かい合うように座っているのが右側にレン、晶。左側に美由希、なのは。そして、桃子と対面する形で座っているのが恭也と平行世界から来たなのはであった。

 桃子は机に両肘をついて手を組み口元を隠すポーズをとると、ニヤリと笑った。

「……さて、説明してもらいましょうか恭也?」

 その言葉に同調するように一斉に頷く両脇の四人。

 恭也となのはは顔が引きつるのを感じた。

「な、なんの話だ」

「当然、あんたの隣にいるその可愛い女の子のことよ」

 びくっとなのはの身体が震えた。

 可愛くなんてないですけど……、と心の中で呟くしかできないなのはだった。

「この子は、だな。な……」

「な?」

 名前を言おうとして、恭也は突然停止する。

 訝しげな一同を無視して、恭也はなのはに顔を寄せた。

(……なのは。名前はどうする。そのまま言ってしまっていいのか)

(あ! そ、そっか。一緒でもいいけど……それだとなのはちゃんと区別がつかないよね……)

 高町姓はなくはないし、問題ないとしても名前まで一緒だと呼ぶ時にも困るだろうし何より不審だろう。

 まあ、実際には今の段階で相当不審なのだが。

(じゃあ……えっと、何かいい名前は……)

 とはいえ、急にいい名前など思いつくはずもなく、なのはは小さく唸って苦悩する。

 そんななのはに、横から救いの手が差し伸べられた。

(……よければ、俺が適当な名前を答えておこうか)

(じ、じゃあそれで!)

 余裕のなかったなのはは間髪入れずGOサインを出し、恭也は頷く。

 そして、すぐさま桃子に向きなおって口を開いた。

「……実はこの子は花子というんだが――」

「はい、嘘〜」

「なに!?」

(恭也くんのバカー!)

 最後は速攻でばれるような名前を出した恭也に対するなのはの感想である。

 恭也の持つ、嘘は得意なくせにこういった誤魔化しは苦手という妙な性格がもろに出る形になってしまった。

 本気で驚く恭也に呆れたような視線を向けて、桃子はため息まじりに解説する。

「あのねぇ……そんな判りやすい偽名で、しかもさっきからこそこそと二人で何かしてれば、嫌でも気がつくでしょうが」

 桃子の言葉にうんうんと頷く高町家のみなさん。

 ってことは結局もう名乗るしかないってことですか……。

 なのはは己の不手際を悔いて、うなだれた。

「で、その子の名前は?」

 再び問いかけてくる桃子の眼差しを受けて、恭也は隣のなのはを見る。

 なのはは仕方がない、という諦観も含んだため息を一つ吐いて桃子の視線に真正面から応えた。

「……はじめまして。わたしは、なのは。高町なのはと申します」

 改めて名乗り、よろしくお願いします、と頭を下げる。

 対する高町家の面々は、ぽかーんという擬音が似合う、まるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔で言葉を失っていた。

「ふわぁ……なのはと同じ名前なんですねー」

「うん、そうみたいだね。あ、わたしの場合は、高町“菜乃葉”って書くんだけど」

「あ、なのはは平仮名です」

 そうなんだー、すごいですねー、とお互いに笑いあうなのはと菜乃葉。

 ちなみに漢字での“菜乃葉”という表記は、いま咄嗟に考えたこちらのなのはとの区別のためだった。さすがに表記まで一緒ではこんがらがってしまうだろう。

 この菜乃葉という名前は、士郎が考えた名前だと菜乃葉は自らの母から聞いていた。ただそれだと固い感じがするから平仮名にしたのだと。そういったことを聞いていたから、咄嗟とはいえこの名前が出てきたのだろう。

 確かに、まったく違う名前だと混乱するだろうし、それほど悪い名前でもないか、と菜乃葉は思った。

(では、なのはのことは菜乃葉と呼べばいいんだな?)

(うん。恭也くんも、それでお願いできる?)

 小声で確認しあい、恭也は頷いた。

 そしてようやく復帰を果たした桃子たちが、はっとして菜乃葉のほうを向く。美由希たちはまだ驚きを隠せないようだったが、さすがに桃子はもう落ち着きを取り戻しているようだった。

「えっと……それじゃあ、菜乃葉ちゃん? うちの恭也とはどういった関係なの?」

 問い詰めるよいうよりかは楽しんでいる口調で、桃子は菜乃葉に問いかける。自身の知る母も他人の色恋には非常に敏感な人だったが、ここまでだったかなぁと思うと菜乃葉は苦笑を禁じ得なかった。

「えっと……幼なじみ、になるのかな? 一応……」

「む……そうだな。幼い頃に一緒に遊んでいたことを考えれば、そうとも言える」

 たったの一日だけだったが、お互いにそれぐらい仲良くなったという自負はある。

 ただの友達とは言いたくないし、昔の知り合いというほど薄い関係でもないと思いたい二人であった。

「その……九年ほど前に、一緒に遊んだことがあって……それ以来会ってなかったんですけど、今日偶然再会したんです」

「母さん、覚えていないか? 九年前の縁日があった後日、父さんのことを叱っていただろう」

「え? うーん……」

 恭也から言われ、桃子はどうやら自分もどこかしかで関係しているらしいと気がついて腕を組んで過去を掘り返す。

(縁日というと、あの時のデート? 確か恭也があの日からわりと懐くようになってくれて……ああ、そういえば)

「士郎さんが恭也にウソを教えていて、あたしが怒ったアレ?」

「ああ、そうだ。その時に話題に出ていた女の子がいただろう。あれが菜乃葉だったんだ」

 あれか、と桃子は思い出せたことに安堵する。

(確かようやく心を開きかけてくれた恭也のことが可愛くて、ついつい士郎さんに冷たくなっちゃったのよねー、あの時って……)

 懐かしいわぁ、と今は亡き夫との思い出に束の間浸る桃子。その思い出が呼び起こされたことに呼応してか、次々とその時の情景が頭に浮かんできて桃子は優しく微笑む。

 もはや会えない人であっても、こうして心の中では色あせず生きている。そのことが、何だかたまらなく嬉しく感じる桃子だった。

(あれ? でもそういえば……)

 そして思い出していくうちに、ふとあることを思い出す。

 さらにその事実と今の恭也の言葉を見れば、あの時恭也がそれをした相手が目の前の少女だと予想されることに、桃子は気がついた。

 ――にやり。

 結果、桃子は再び某総司令なみのスマイルを顔に浮かべることになる。

「ど、どうした母さん」

 その笑みにいい思い出がないのが恭也である。その類まれな第六感によって己に迫る危機を感じ取ったようだ。わずかに身が引けている。

「?」

 菜乃葉のほうは首をかしげるだけであったが。

「きょ・う・や〜?」

「ぐ、な、なんだ」

 完全に捕食者と被捕食者のような対図であった。周りの皆も空気にのまれてか声を出すことができないようだった。

「あの時の嘘の内容……士郎さんが確か『指輪を女の子に渡すのは親友の証』って言って恭也を騙したんだったわよねぇ。……今の話を聞くと、菜乃葉ちゃんに?」

「な!?」「ふぇ!?」

「「「ええええええぇ〜〜〜ッ!!」」」

 にやにやとしながら訊く桃子。

 その顔を見れば確信犯であるのは明白であった。

「ど、どういうことなの恭ちゃん!?」

「お師匠、いつの間にそんな!」

「師匠、ゆ、ゆびわなんて渡してたんですか!?」

 途端に騒がしくなるのは、やはりというか当然というか美由希、レン、晶の三人である。

 三人が三人とも恭也に対しては、友愛以上の思慕を抱いているだけにその様はまさに必死である。

 そんな三人に、なぜそんな剣幕で迫られねばならないんだ……、と心中で呟くのがこの男のすごいところ。自分の感情ならまだしも、他人の感情にはとことん疎い恭也であった。

(……なんか、恭也くんってモテるんだなぁ……)

 そして、そんな三人の様子が何だか面白くないのが菜乃葉である。

 自分自身、恭也に対してそういった感情を持っていることに気がついているだけに、他の子が恭也に向けるそういったモノにも敏感になる。

 その結果、ついつい嫉妬心というか怒りのようなものが湧いてきてしまうのも無理がないわけで……。

(!? ……くっ……! よ、横から何か凄い気を感じる……!)

 ついつい恭也に向ける視線に殺気がこもるのも無理のないことであった。

「あらら……大変そうねぇ、恭也」

「母さんのせいだろう!?」

 元凶のくせにのほほんと告げる桃子に、本気で泣き出したくなる恭也だった。

 ちなみになのはは、やっぱりこれぐらいのほうがウチらしいなあ、と思いつつお茶を飲んでいる。小学生の割に要領がいいなのは。桃子の娘というのは伊達ではなかった。







●その7




「さて、と。いい加減に話を元の道に戻さないとね」

「……逸らしたのは誰だったか、高町母」

 さすがにまずいと感じた桃子は、誤魔化すようにあははーと高い声で笑った。

 ついでに菜乃葉からも幾分キツ目の視線を頂いている。どことなくなのはに似ていることもあって、菜乃葉には逆らいづらく、居心地の悪い思いをする桃子だった。

「え、えーっと……確か、偶然きょう再会したんだったわよね? うん、それからそれから?」

 ((((かなり強引に誤魔化そうとしてる……))))

 皆の心が一つになった瞬間であった。

 不満は残るが、とはいえこれでは確かに話が先に進まない。

 やれやれという思いとともに、はあ、と一息吐くと恭也は気持ちを切り替えて話し出した。

「……菜乃葉は、九年前からこっちずっと海外にいたみたいだ。両親は既におらず、向こうの親類を頼ったとのことだ。そうだったよな、菜乃葉」

「……へ?」

 突然恭也の口から恥ずかしげもなく飛び出した口から出まかせに、菜乃葉は呆気にとられて反応が遅れた。

 しかしすぐに恭也が自分のために嘘をついてくれているのだと気がつき、すぐに首をこくこくと縦に振る。

 それを確認して、素知らぬ顔で恭也は続けた。

「しかし、あちらの親類とは折り合いが悪く、菜乃葉は自らで貯めていた貯金で昨日日本に来たらしい」

「あの、そうなんです。お世話になったことには感謝していますし、ちゃんと別れの挨拶も済ませてきました。ただその……」

 ちら、と恭也に目を向ける。

 恭也は任せろとばかりに力強い眼を菜の葉に向けた。

「どうやら荷物類が空港でなくなってしまったらしい。それも鞄一つ持ってきただけだったからまず見つからないだろう、とのことだ。……金銭については貯金があるらしいが、それでもショックだったらしく、昔来たことのあるこのあたりに気分転換に足を運んでみたところ――」

「恭也くんに会うことができて、話しているうちにそれならしばらくうちに来たらどうだ、と誘ってくれたんです。それで、今のところまだホテルもとっていなかったので一度足を運ぼうかな、ということで……」

「現在に至る、というわけだ」

 恭也は最後にそう言って言葉を締めくくって、常と変らぬ落ち着いた装いで席についている。少しも動揺した気配などはない。

 菜乃葉はそんな恭也を見て、驚きを隠せなった。とてもさっき「花子」とか言い出した人物とは思えない。

 まさか恭也がこんなに嘘をつくことに長けた人間だとは思ってもみなかったのである。ところどころ穴がある気もするが、咄嗟に思いついた出まかせとしては上等な部類だろう。

 感謝すればいいのか、呆れればいいのか判断に迷う菜乃葉だった。

「はぁー……、菜乃葉さんも苦労してるんだね……」

 しみじみとした声で美由希が言う。

 それに続くような形で、次々と皆の口が開かれる。

「本当だよな。あたしらと大して変わらない年齢に見えるのに、しっかりしてるし」

「せやなぁ。そないなことがあったゆうんに、落ち着いてはるし」

「お兄ちゃん、ナイス判断ですねー」

 と、まったく今の嘘を疑っていない口ぶりに菜乃葉の心に良心の呵責がのしかかる。

 とはいえ、こうしなければ手持ちのものが一つもない現状では路頭に迷うしか道がないので、いまさら訂正することもできないジレンマであった。

 その時、恭也が小声で話しかけてくる。

(……とりあえず、こんなところで大丈夫だったか)

(うん、まあ……。それにしても恭也くん、嘘吐くのうまいね……)

(数少ない趣味だからな)

 いや、それはダメなんじゃ……。

 どこか誇らしげに言う恭也に、若干ひきつり気味の苦笑を浮かべる菜乃葉だった。

「……と、いうわけなんだが母さん。しばらくの間でいい、ここに菜乃葉を泊めさせてやってもらえないだろうか」

 恭也がそう言うと、菜乃葉も慌てて言葉を続ける。

「あ、あの……もしご迷惑でなければ置いてもらえないでしょうか。ホテルという手もあるので、無理にとは言いませんけど……」

 もちろん、ホテルに泊まるためのお金などがない菜の葉は野宿しかなくなるのだが、騙しているという負い目があるためかつい遠慮がちな言葉になる。

 だが、その自信なさげに遠慮をする態度は美由希たちには菜乃葉の優しさと映った。そして、たった今伝え聞いた話は彼女らに人情を感じさせるに十分なものだった。

「ねぇ、母さん。あたしからもお願いするよ。菜乃葉さん、泊めてあげてもいいんじゃない?」

「「桃子さん(ちゃん)……」」

 実際には居候という立場である晶とレンは美由希のように強くは言えないが、それでも桃子にじっと視線を向ける。

「おかーさん、なのはからもお願いします。菜乃葉さんのこと、泊めてあげて」

 なのはからの声援も受けて、美由希たちは決定権を持つ桃子の反応をじっと待つ。

 その皆の優しさを見つめながら、菜乃葉は押し寄せる胸の痛みと必死に闘っていた。

(うぅ……胸が痛いよレイジングハート。なんだか凄く優しさが痛い……)

≪This is sake of master and, there’s no help for it under the present conditions.(これはマスターのためですし……現状では仕方がないかと)≫

(そうなんだろうけどね〜……)

 とはいえ、結局はだまくらかしているわけで、元来まっすぐな気質の菜乃葉にはなかなか酷なことだったかもしれない。

 ため息をつきつつ念話を切ると、ちょうど桃子が腕を組んで悩んでいた顔を上げたところだった。

 恭也含め、全員がその様子に注目する。菜乃葉も例に漏れず、桃子のことをじっと見つめた。

「……そうねー……、恭也」

「……なんだ」

「言いだしたのはあんたなんだから、もし何かあった時はあんたが全責任を負うことになるわよ。それでもいい?」

「っあ、あの、そっ……!」

 自分のことで恭也にそこまで迷惑がかかる、と即座に思った菜乃葉は思わずそれならやっぱり、と言葉を続けそうになったが、恭也の大きな手が顔の前に差し出され、言葉を切った。

 慌てて恭也のほうを見ると、恭也はどこにも気負いのない自然な表情でそこにいた。

「……ああ、それでいい。俺が言いだしたことだからな。それぐらいの常識はある」

 はっきりと言い切った恭也に、菜乃葉は何も言えなくなってしまった。

 自分のせいでいらない荷物を恭也が背負ったようにしか思えない菜乃葉は、顔を俯かせて膝の上の両手をギュッと握りこむ。

 十五になって、管理局でもそれなりの地位と実力も手に入れた。けれど、やっぱり自分は誰かの世話がなければ何もできない子供なのだ、と思い知らされた。

 そのことが悔しく、また恭也に本来必要なかった苦労をかけたことを思うと情けなく思う。

 そう内心で自分を責めていると、恭也が唐突に菜乃葉の頭にぽん、と手を置いた。

 びくっと身体を震わせて隣に座る人物の顔を見上げると、泰然とした態度のままで恭也は気にするな、と言っているように思えた。

 そんな彼の優しさに、菜乃葉は救われる思いだった。

 迷惑をかけてしまったことは、事実だ。これは、大きな借りというものだろうと菜乃葉は考える。

 なら、絶対にこの借りた恩を返さなければいけない。そうすることで初めて、恭也の優しさに報いることができるような気がした。

 そのことを胸の内にしっかりと刻み込み、菜乃葉は俯いていた顔を少し上げた。

 そして恭也のほうを向いて、小さな声でありがとう、と呟く。

 すると、恭也は照れたのか菜の葉からふいっと目をそらした。

 その様子に我知らず笑みが浮かぶ菜乃葉。さっきまでのような気持ちはどこにもあらず、温かい気持ちが心を占めていた。

 ――しかし、忘れてはいけないのが此処はリビングで、この家の住人が全員ここにいるということである。


「……ねぇー、仲がいいのはわかったからもうちょっと桃子さんのお話、聞いてくれないかなあ」


 桃子の言葉に応える二人の様子はそれはもう面白かった。

 恭也・菜乃葉ともに電撃でも食らったかのように大きく身体を揺らして、がたがたと慌ただしく椅子に座りなおす。そして菜乃葉は真っ赤な顔で縮こまり、恭也も幾分顔に赤みがさしていた。

 しまいにはちらちらと互いに互いの顔を盗み見る始末である。

 落ち着きなさげにそわそわとしている二人を眺めて、桃子はようやく訪れたらしい恭也の春に内心小躍りしてにやにやとその様子を見つめていた。

 

 

 そして、ある意味で恭也たちより落ち着きをなくしたのが美由希、晶、レンの三人である。

 彼女らは小声でひそひそと囁き合う。ちなみに、場所はテーブルの下だ。

(ま、まずいで美由希ちゃん。お師匠、なんや見たことがない表情しとります!)

(た、確かに。わたしもあんな恭ちゃん見たことないよ……)

(あれは、確実に菜乃葉さんに好意を持ってますって)

 見るからに怪しい会議であるのだが、恭也と菜乃葉は自分のことで今は精一杯で気にしていないし、桃子は面白そうなので放置している。なのはは、呆れ顔でお茶を飲んでいた。

 小学生に呆れられているとはつゆ知らず、彼女らの会議は続く。

(……ここは、忍さんらにも知らせるべきちゃいます?)

(……みんなで対策を練ろうってこと?)

 美由希は気が乗らないのか、訝しげにそう聞いた。

(美由希ちゃん、ここは仕方がないって。明らかに師匠と菜乃葉さんの雰囲気は危険だし)

(う〜ん……それは、確かに)

 今だって姿勢を直したところで、お互いの様子を気にかけているのはバレバレである。

 確かにこれはまずい、と美由希も考えた。

(……それじゃあ、あとで忍さん、那美さんに連絡。秘密裏に集合。オーケー?)

((ラジャー))

 美由希の言葉に、晶とレンは敬礼をして返す。その二人に美由希も一つ頷いた。

 かくして、第一回恭也と菜乃葉の関係会議は終了された。三人ともテーブルの下から出て席に着く。それについて言及する者が誰もいない、というのがまたこの家ならではの異常性であった。

 なのはの呆れ顔はそのままだったが。

 ちなみに、この会議は以後“高町菜乃葉対策会議”と名前を変えて存続することになる。議員数は五名。構成メンバーが誰であるかは言うまでもないだろう。

 

 

 全員が落ち着き、席に着いたのを確かめると、桃子はにっこり笑顔で再び口を開いた。

「……と、いうわけで。ただ今を以て、高町菜乃葉さんがこの家の一員となりまーす! みんな、先輩として色々教えてあげるようにね!」

「「「「はーい!」」」」

 律儀に手を挙げて返事をする面々に、菜乃葉は思わず吹き出してしまう。隣で恭也は若干呆れながらも優しい顔でその様子を見つめていた。

「それじゃあ、まずは自己紹介しましょうか! まずは私、この家のあるじ高町桃子。お義母さんでも、桃子さんでも好きに呼んでね。お仕事は翠屋っていう喫茶店の店長やってます。困ったことがあったら、いつでも言ってね〜」

 おかあさん、という響きがどことなく変な感じに聞こえたような気がしたが、気にしないようにして菜乃葉はよろしくお願いします、と返した。

「次はあたしかな。高町美由希っていいます。恭ちゃんの妹で、なのはのお姉さん。趣味は読書……かな。これからよろしくお願いします」

「次は俺だな。城島晶っていいます。この家でお世話になってて、料理当番やったりしてます。特技はそれと、空手かな。とにかく、よろしくお願いします」

「そんでうちは鳳蓮飛いいます。レンって呼んでやってください。趣味は料理と日向ぼっこです。そこのおサルと交代で料理当番なんてやってるんで、美味しい料理ごちそうしますね。これからどうぞよろしくお願いします」

「……おい、カメ。いま俺に喧嘩うったよな」

「何ゆうとるんや。事実ゆうただけやろ、お・さ・る」

「ぶっ殺す!」

「返り討ちにしたるわ!」

「や・め・な・さぁ〜い!!」

 いきなり喧嘩を始める二人に負けないほどの大きな声で、なのはは怒声を張り上げた。

「もう、どうしてそんなに喧嘩するんですか!」

「だってこいつが……!」

「人のせいにすんなや!」

「二人とも同罪です!」

「「はい……」」

 なのはが怒り諌めると、二人はしゅんとして素直に従う。

 それからもなのはは止まることなく恒例となったお説教を開始して、それを聞く晶とレンは肩を落として神妙にしていた。

 そのあまりの異様さに菜乃葉は、小声で恭也に話しかける。

「……な、なんだか凄いことになってるけど……」

「……いつも通りだ、あれは」

 溜め息まじりにそう返されて、菜乃葉は冷や汗を流しながらもとりあえず相槌を打っておく。

 い、いつも通りなんだあれ……。

 まあ、普通の生活をしていればそう思うだろう。まさか九歳の小学生に彼女らぐらいの年齢の人間が説教されているなどとは、間違っても考えない。

 菜乃葉はこっちの自分はどうやら全然自分とは違うみたいだ、と一層これまでの認識を新たにした。

「ふぅ……もう、これからは気をつけてね、二人とも」

「「はい、わかりました……」」

 どうやら二人へのお説教を終えたらしいなのはは、叱りつける厳しい表情を少し緩めると、改めて菜乃葉のほうに向きなおった。

「えーっと、お待たせしたみたいですみません……。さっきも言いましたけど、わたしは高町なのはっていいます。今は小学校に通う三年生です。たまにお母さんのお手伝いなんかもしていますから、翠屋のほうにも顔を出してみてください」

 さりげなく宣伝するなのはの愛らしさに、思わず菜乃葉の頬も緩む。

 結局、自分自身とは違う高町なのはなのだと認識してしまえば、ただの素直で可愛らしいいい子でしかなかった。

「よろしくね、なのはちゃん」

「はい! えっと……菜乃お姉ちゃん!」

「え?」

 菜乃お姉ちゃんと呼ばれたことに驚き、思わずといった様子で声が漏れる。

 なのはのほうを見やると、なのはは照れ臭そうにえへへ、と笑っていた。

「お姉ちゃんのことはお姉ちゃんって呼んでるので、菜乃葉さんは菜乃お姉ちゃんって呼びますね」

 満面の笑顔で言うなのはに、菜乃葉はどうしたものかと戸惑ってしまう。

 そう言われることは嬉しいが、あくまで自分は無理にやってきた居候なのだ。そこまで親しく呼ばれるのもなんだか恐縮してしまう。


「――菜乃葉ちゃん」


 そんな菜乃葉の様子を見ていた桃子は、優しく声をかける。

 菜乃葉が桃子の方へと顔を向けると、彼女はとても穏やかにまさしく母性で包み込むかのような温かな笑顔でその眼差しを受け止めていた。

「ここは、みんなの家。だから、この家に住む人はみーんな家族」

 そう微笑んだまま告げる桃子の姿に、菜乃葉はなぜか目が逸らせない。じっと見つめていると、桃子はにこっと笑った。

「つまり、あなたももう私たちの家族ってことよ。名字は一緒だからちょっと変かもしれないけど……――高町菜乃葉ちゃん、ようこそ高町家へ」

 屈託なく笑う桃子に菜乃葉は数瞬驚いたように目を見張るが、それもゆっくりとほぐれて柔らかな微笑みへと変化していく。

 桃子が言うには、もう自分はこの家の家族の一員なのだということらしい。

 なんともはや、もの凄く大らかで優しいなあと思う菜乃葉だった。

 たとえ自分の知る母ではなくても、こうして目の前にいる母はやっぱりこんなにも優しい。そのことが、どこか誇らしくもあり嬉しく感じる。

 きっと、そんな桃子の娘だからなのはもさっき自然とああいう呼び方をしたのだろう。

 彼女らの中で、菜乃葉はもう家族という認識になっているのだ。

 (……なら、わたしもちゃんと応えないとね)

 菜乃葉は居住まいを正して、ゆっくりと頭を下げた。

「これから、よろしくお願いします」

 そうして顔をあげた先にある皆の笑顔を見て、菜乃葉は不安だらけの現状にあって本当に安心したように肩の力を抜くことができた。

 これからどうするかはまた考えなければいけないことだが、本来感じるべき不安は小さく随分と落ち着いている自分に菜乃葉は気がついた。

 それはやはりこの家族の持つ優しい空気が原因であるだろうし、再び出会えた恭也のこともあるだろう。

 とりあえず、この世界で頑張りますか!

 そう前向きに決心すると、菜乃葉は自分をじーっと見つめてくるなのはの視線に気づく。それに微笑みを返すと、なのはも明るい笑みを返してくれる。

 その姿はまるで本当の姉妹のようだった。

 そして隣で同じく微笑む恭也に目を向けて、菜乃葉は笑う。


 ――これから、よろしくね恭也くん。


 そんな意味を込めて。







―――To Be Continued