EVA −Under the Glass MOON−









0/In the Crimson World











 赤。

 目の前に広がる海は赤く、空はまるでこの世の不純物をすべて取り除いたかのように透き通った星空を映していた。

 夜空にかかる一本の赤い線は、まるで出来損ないの虹のよう。目の前のビルの残骸や磔にされた十字架郡とあいまってその世界はどこか神聖に思え、しかし地獄といわれても信じられるような毒々しさも感じられた。




 ざぁ、ん。

 波を返す音が聞こえる。

「―――、―――」

 波が返る音が聞こえる。

「―――、――な」

 まるで、波にさらわれるように。海に、誘われるように消え入りそうな、声。

「……して、こんな」

 悲哀。後悔。不安。不快。憤怒。憎悪。―――やるせなさ。そんないくつもの感情が混沌と響く声を、



「どうして、こんな―――!」



 碇シンジが、口にしていた。











「なんで、僕は、こんな世界は望んでいなかったのに……ッ!」

 ただ、一人は寂しいと訴えた。みんなと在りたいと渇望した。好きになりたい、と初めて思った。

 それが、希望なのだと信じたのに。


「どうして、僕はまた一人だ……!」


 アスカは逝った。呪詛のような呟きを、最後の置き土産にして。僕を置いて、逝った。

「うっ……ぐ、うあぁ……あ……」


 涙が出た。

 望んだものは、いつだってたったひとつだった。



 『優しくして』



 一度でいいから、優しさを与えてほしかった。一度でいいから、ここにいてもいいんだという証がほしかった。一人でいいから、自分を思ってくれる人が、欲しかった。

 まるで、母親のような。そんな優しさを、そんな存在を、欲しいと思っただけなのに。

 なのに。



「うっ、ううぅ……」


 世界はそんな願いさえ、許してはくれなかった。



 たったひとつの、幼い子供のような祈り。揺り籠のような庇護を、一度だけでも感じてみたいという切望。

 傷つき、傷つけ、裏切られるような世界であったとしても。

 いつかそんな優しさを向けられるかもしれない。自分を愛してくれる人に出会えるかもしれないという、そんなちっぽけな希望があれば、きっとそんな世界でも生きていくことが出来たのに。



 だけど。


「あ、ああぁ……」



 そんな世界は、もうどこにも存在しない。




 広がるのは赤い世界。すべての生命が混ざり合った原初の海。

 泣きはらした顔を、シンジはおもむろに上げた。目前に悠然と在るその、この世全ての生命の結晶。

 それを見て、唐突に脳裏によぎる。


 確か自分は、泳げなかったはずである、と。


 気づけば自分は立ち上がり、足を赤い海へと向けていた。ふらり、ふらりと進む姿は、さまよい出でた幽鬼の如く。一度も立ち止まることなく、一度も躊躇うことなく。


 その身体を海に投げていた。


「が……ふ……」

 赤い水が肺に入り込む。むせて、残っていた酸素を全て吐き出した。これから死ぬとわかっているのに、心は驚くほどに穏やか。




(ああ、これで……)

 死―――……







 ……ズキン。







(ぐ!?)


 ズキン。ズキン。


(い、が!?)

 痛い痛い痛い!

 同時に、流れ込んでくるナニカ。

 知らない風景、知らない言葉、知らない人たち、知らない出来事、知らない事情、知らない思惑、知らない真実、知らない知らない知らない知らない―――!

 頭が割れる。脳が潰れる。



「―――、―――!」



 自分の記憶、綾波の記憶、アスカの記憶、カヲル君の記憶、ミサトさんの記憶、父さんの記憶、人類の記憶、動物の記憶、植物の記憶、世界の記憶。記憶記憶記憶記憶記憶記憶―――。




「―――! ―――!!」




 声にならない。もとよりここは海の中。声になろうはずもない。

 ただ、この世界の記録をまるごと一人の人間に移そうとしている。ただそれだけのこと。

 そして、その一人の人間にそれを受け入れる容量が足りなかった。それだけの、こと。

 役に立たない器の行き先は、ジャンクヤード。それは、ごく当たり前のことにすぎない。

 だから、ただの人間に過ぎない碇シンジは死ぬほどの頭痛によって殺される。ただ、それだけのこと。




『碇くん―――!』




 だから、青い髪の少女の声が聞こえたことは、きっと走馬灯のようなものに違いない。その思考を最後に、碇シンジは、意識を手放した。






















 ……………………。

 ………………。

 …………。



「―――……あれ?」



 目を開ける。口を開くと出てきたのは間の抜けたような自分の声。視線の先には星が光る夜空が変わらずそこに在り、こちらを見るでもなく見下ろしている。


「…………」

 視線を横にずらすと、広がっている赤い海。

 さっきまで、殺されそうになっていた赤い―――


「ぐ、うっ……」

 思い出した。思い出してしまった。

 自分の頭の中で起こされた情報の氾濫。自分という情報すら塗り潰されそうな、圧倒的な記録の渦。

 取り憑かれたかのように自分という器に流れ込んでくる世界の記録。

(つまり、世界に取り殺されるところだったのか……)

 それを想像しようとして、頭の中で世界が三角巾をつけた一つ目のお化けになってしまい、シンジは自分の想像力に苦笑した。





「……碇くん、気がついたのね」





 ―――ふと、幻聴かと思った。




 寝ていた体を起こし、声のしたほうに目を向けると、確かにそこには青い少女が、懐かしい中学校の制服を着て立っていた。



「あ、やなみ……」



 名前を呼ばれて、綾波レイはどこか嬉しそうに頷いた。


「綾波! 綾波ぃ!」

 駆け出し、シンジは人肌を求める赤子のようにレイに抱きついた。最初、目を丸くしていたレイも、静かにその手をシンジの背中に回し、七回目となるシンジの温かさに触れて、やわらかく微笑んだ。

「あや、なみぃ……」


 もうすでに涙声で、それでもレイの名前を呼ぶ。ようやく会えた人。一緒に戦った仲間にして、友達。


 ―――ああ、なんて自分は馬鹿だったんだ。


 レイをかき抱く腕に力を込める。温かい。胸のうちから湧き上がるような。


 ―――人か、そうじゃないかなんて関係ない。綾波は、こんなにも温かいじゃないか。


 使徒だとかそんなことは些細なことだと思った。


 そう、ただ―――


「綾波は、綾波じゃないか……」



「碇くん……?」


 すっとレイから身体を離し、顔を伏せたままシンジは頭を下げた。

「ごめん、綾波」

「どうしたの?」

 あくまでも無邪気な質問。シンジは、顔を上げない。

「君のことを、避けてた。人間じゃない、と思って。だから、ごめん。ようやく気づいたんだ。人でも、そうじゃなくても、綾波はずっと綾波だったのに」

 びく、とレイの身体がわずかに震える。

「そんなの関係なかったのに、綾波は綾波だったのに。僕は、僕が弱いせいで綾波を傷つけたと思う。ごめんなさい、綾波……」

 深く、頭を下げる。シンジは覚悟していた。何を言われても、何をされても、絶対に受け入れると。罰なら受ける。死ねといわれれば、頑張って死のう。それがきっと、自分の贖罪なんだとシンジは覚悟していた。

「碇くん……」

 かけられる、声。断罪か、責め苦か。シンジは頭を上げない。

「……私は、人間じゃない自分が嫌いだった。みんなと違う自分が嫌だった。ずっと、無に還ることが出来たなら、と願っていた。……けれど、私は変わったわ」

 ふわ、と微笑む。

「碇くんに会いたい。碇くんと一緒にいたい。私は、生きたいと思い始めていた。それは、碇くんがいてくれたから。碇くんのことが好きだから。だから、碇くんが私は私だと言ってくれるなら、私は、私としていられる。―――ありがとう、碇くん」

 優しい。

 シンジはそう思った。汚く、逃げ続けた自分に、感謝の言葉をくれた彼女。こんな自分を、好きだと言ってくれた彼女。


『好きという希望―――』


 カヲルの言葉を思い出す。確かに、これは希望の光だ。ただ二文字。そう言ってもらえるだけで、こんなに幸せな気持ちになれるのだから。

「ありがとう、綾波……」


 感謝の言葉とともに顔を上げ、






 ―――ドクン。






「――――――え?」






 張り付いたように、固まった。




「? 碇くん?」




 ドクン。


 目に、なにか写っている。綾波の身体に見える、黒い線と黒い点。


 ドクン。


 気持ち悪い。何だこれは。何で見える?


 キモチワルイ。


 ワカラナイ。イヤ、シッテイル……?




 ドクン。





 ザザ、と砂嵐のような感覚で脳が押し潰される。ソウダ、コレハ……―――







 コレハ■ナノカ―――?








「ぅ……!」


「碇くん!?」


 突如脱力感に襲われ倒れたシンジを抱えるレイ。シンジは変わらず身体に力が入らない。

「どうしたの、碇くん!」


「―――、……ぁ、線が、見えるんだ。黒い線と点が……」


「線と、点……?」

 レイはおもむろにシンジの額に自分の額を合わせる。


 アンチATフィールドを視覚面に弱展開。視界を一時共有。レイはシンジが今見ている視界を自分でも体験し、愕然とした。

 レイの顔が、こわばる。




「死を視ている……?」




「え……?」



 シンジの一言の問いかけに、レイはアンチATフィールドを今度は思考面で展開する。レイの考えがシンジの頭に流れていく。


 曰く、モノには発生した瞬間から死が定められている。

 この目は、それを線と点という形で視覚化している、と。



「死を視る目……」

 呟く。



「……さっき、碇くんが世界の記録に塗り潰されそうになっていた時、私は使徒としての力を碇くんに与えた。ただのリリンに、とても耐えられるものではなかったから」

 さっき、というのは赤い海に身を投げた時のことだろう。シンジは普段言葉少ななレイの説明を理解しようと、真剣に聞き始めた。

「だから、いまの碇くんは第拾八使徒リリンとして覚醒している。ATフィールドも使うことが出来るはずよ。……けれど、間に合わなかった。まだ人間であった時に、世界の記録に触れて死に掛けたために、碇くんは死を理解してしまった」


「死を、理解……?」


 レイはひとつ頷き、すぐにまた話し出す。

「世界の記憶は全ての記録。当然、そこには『死』という概念に対する答えもある。……碇くんはそれに触れてしまった。そしてそのまま本来死ぬはずが、使徒となることで死ぬことなく、それを理解したまま生きることになってしまった。……ということだと思う、わ」

 はぁ、とレイは息をついた。

「……碇くんは、死を理解したはず。なら、それは碇くんの能力の一つにすぎない。見たくないと思えば、線と点は消えるはず。見たいと思えば、見れるはず……」

 レイの言葉に、シンジは目を閉じて早速心の中で念じてみる。ATフィールドを発生させるときのような感覚。見ることを拒絶するイメージ。

 目を開くと、黒い線と点は消えていた。ついでにATフィールドも展開させてみる。何の問題もなく、目の前に六角形の橙色の壁が出現した。

「うん、大丈夫みたいだ」

 その言葉に、どこか疲れた様子でレイは頷いた。

「さっき、碇くんが倒れたのは、初めて死というものを目にしたから。混乱、したのだと思う。これからは、たぶん、大丈夫なはず……」


 途切れ途切れになるレイの言葉。それと呼応するように、少しずつレイの体が透けていくように見える。



「あ、綾波!?」


 あせったように声を荒げるシンジに、レイは優しく微笑む。それは確かに全ての母たるリリスにふさわしい母性の笑みだった。

「さっき、言ったわ。私は使徒としての力を碇くんに与えた。その代わり、私の力は弱くなった。あとは、碇くんにあることをして、それで終わり」



「何言ってるの!? そんな、終わりだなんて、綾波! 死なないでよ! 僕だって、綾波のことが好きなんだよ!」

 その言葉にレイは目を見開き、ゆっくりと心底嬉しそうに目を細めていく。


「ありがとう、碇くん……。すごく嬉しい……これが、幸せというものなのね……」


 穏やかに、かみ締めるように口にする言葉。ついぞ、得られることはないだろうと思っていた人としての幸せ。与えてくれたのは、最愛の人。……こんなに嬉しいことはない。

 そのまま、穏やかにレイは言葉を続ける。



「これから、碇くんを平行世界の過去に送るわ。この世界はもう終わってしまったけれど、終わっていない……人のいる世界もあるもの。そこでまたエヴァに乗るかどうかは碇くんが決めて。私は、孤独に過ごす碇くんを見るのは、もう嫌……」

「あやなみ……」



 ぐ、と唇をかむ。初めて愛しいと思った少女。共にいたいと願える相手。大切な存在。自分は彼女に救われようとしているのに、自分は彼女を救えない。

 情けない自分。気が狂いそうになるほど、そんな自分が悔しかった。

 レイはこれから自分を過去の平行世界に送るという。エヴァに乗るかどうかは自分で決めろとも言った。


 ……愚問だ。答えなんて、最初から決まっている。



「……綾波。僕はまたエヴァに乗るよ。そこで、君を助けてみせる。綾波を、今度こそ助けてみせる。でも、ひとつ教えて。その世界の綾波はこの世界の綾波とは違うの?」


 その言葉に、レイは首を振った。


「いいえ。私も向こうの私も根本は同じ存在。私の魂は消えるわけではない。私は全ての世界の私たちに繋がっている。だから、その私も、私。区別なんて意味のないことよ」




「そっか……。それじゃあ、また僕は君に会うよ。……好きだからね、レイのことが」



「いかり、くん……」



 レイの瞳から涙がこぼれる。すでにかなり透けてきた身体から流れる涙は、あごから落ちると空中で霧散する。それでも、止まることなくレイの双眸からは涙が溢れた。


 涙を目にためて、レイはディラックの海を展開する。黒い穴の向こうには、こことは違う、しかし似ている世界が広がっているだろう。



「―――あっちでも、私をお願い……」

「うん。……行ってくるね、綾波」



 レイのほうを向いたまま、背中からディラックの海へと身を沈めていく。あと少し、あと少しでシンジの姿が消えるというとき―――、







「いってらっしゃい……」







 レイのその言葉を最後に、シンジはこの世界を離れた。


























―――To Be Continued